東富田村
東富田村
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/16 09:44 UTC 版)
江戸期~1889年(明治22年)の村名。枝郷に富田一色村・松原村・天ヶ須賀村があるが、郷帳類ではいずれも東富田村とは別に村高が記載されている。実際には分村していた。村高は397石。他に431石。1829年(文政12年)の家数386軒、人口1943人、庄屋に広谷伝三郎、医者に馬場貞達、馬場順達の名前が記述されている。寺院は真言宗高田派蓮光寺、正泉寺、曹洞宗長興寺があり、長興寺は722年(養老6年)泰澄の創建で、1545年(天文14年)に、南部甲斐守が菩提所として再建したと記述されている。鎮守は若一権現(鳥出神社)と八幡宮。1601年(慶長6年)東海道が開通して、1604年(慶長9年)西富田村との境界付近に東海道富田の一里塚が設置された。東海道桑名宿と四日市宿の中間に位置して、間の宿(立場)と呼ばれた。街道筋には旅籠は軒を並べて、店頭では名物の富田の焼き蛤が販売された。 1889年(明治22年)の戸数800軒・人口3904人、田37町余、畑4町余、宅地13町余。1780年(安永9年)の大火後、伊勢湾海岸地域に移住した東富田村民は漁業を営み、江戸後期から漁村として栄えた。鰹節問屋が繁栄して富田の行商人の名が聞かれた。沿岸漁業は明治時代に船数106隻、漁家数210、漁民1151人。漁業の発達で富田水産株式会社が大字東富田本町に開業、海産問屋も開業して、富田漁業組合が設立された。水産加工業者が増加して、煮干・素乾いわしなどの生産も盛んになる。魚介類はカタクチイワシ・コウナゴ・スズキ・シラス・富田の焼き蛤(ハマグリ)であった。国道1号線を境界に浜地区(水産業地域)・高地区(商工業地域)に2分される。1966年(昭和41年)に一部が富田1丁目~富田4丁目・富州原町・松原町となり、残余も東富田町となる。
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