軍旗の奉焼等
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近衛後備歩兵第1連隊(1904年6月15日に奉焼。翌年6月28日に再授与)日露戦争下の1904年(明治37年)6月15日、常陸丸事件でロシア帝国軍に鹵獲されることを防ぐために連隊長・須知源次郎陸軍歩兵中佐が奉焼させた。同年6月28日に「曩ニ近衛後備歩兵第一聯隊ニ授与シタル軍旗玄界灘ニ於テ聯隊長戦死ノ際焼棄セシニ由リ更ニ此軍旗一旒ヲ授ク」という勅語とともに再授与された。 歩兵第49連隊(1906年10月2日に失火により焼失。同年12月14日に再授与)北韓警備に当たっていた1906年(明治39年)10月2日、火災によって連隊長室ともに焼失する。旅団長は5日、連隊長・太田朗陸軍歩兵中佐及び連隊旗手は軽謹慎30日、連隊長代理及び週番司令は軽謹慎25日、連隊附少佐及び連隊副官は軽謹慎20日の処分を受けた。なお、軽謹慎処分は懲罰処分であって、軍法会議にかけられたわけではない。同年12月14日に「曩ニ歩兵第四十九聯隊ニ授与シタル軍旗ハ不慮ノ災ニ罹リ亡失セシニヨリ更ニ此軍旗一旒ヲ授ク」という勅語とともに再授与される。 歩兵第64連隊(1939年8月29日に奉焼)ノモンハン事件下の1939年(昭和14年)8月29日、ソ連軍に包囲され脱出が困難となったため、連隊長・山県武光陸軍歩兵大佐は軍旗を奉焼させた。 歩兵第71連隊(1939年8月30日に奉焼)ノモンハン事件下の1939年8月30日、ソ連軍に包囲され脱出が困難となったため奉焼した。連隊長は先に戦死していた。 歩兵第170連隊(1942年11月16日に海没)1942年(昭和17年)11月16日、パラオ沖でアメリカ海軍潜水艦の雷撃により輸送船とともに海没する。連隊長の再三の再交付申請も、大本営参謀・辻政信により、連隊解散、激戦地への所属兵員の配置が懲罰的に行われ再交付されなかった。帝国陸軍史上前代未聞の軍旗海没事例であった。 歩兵第28連隊(1942年8月21日に奉焼)ガダルカナル島の戦い下の1942年8月21日午後3時、ガダルカナル島で奉焼。連隊長・一木清直陸軍大佐は自決(日本側の戦闘詳報)。その後、証言により軍旗は埋没処理と判明している。 歩兵第29連隊(1942年10月・1945年9月)ガダルカナル島の戦い下の1942年10月頃、埋没処理を行う。連隊長・古宮正次郎陸軍大佐は自決。連隊再建後の1944年1月31日に再授与、終戦時は仏印のビエンホア付近で奉焼。 歩兵第210連隊(1944年4月26日に海没)1944年(昭和19年)4月26日、バシー海峡でアメリカ海軍潜水艦の雷撃により輸送船乗船中の連隊長・小池安正陸軍大佐とともに海没する。再交付されなかった。 歩兵第118連隊(1944年7月4日に奉焼)サイパンの戦い下の1944年7月4日、サイパン島で奉焼。連隊長・伊藤豪陸軍大佐は先に戦死していた。 歩兵第135連隊(1944年7月4日に奉焼)サイパンの戦い下の1944年7月4日、サイパン島で奉焼。連隊長・鈴木栄助陸軍大佐は先に戦死していた。 歩兵第136連隊(1944年7月4日に奉焼)サイパンの戦い下の1944年7月4日、サイパン島で奉焼。連隊長は小川雪松陸軍大佐。 歩兵第38連隊(1944年7月21日に奉焼)グアムの戦い下の1944年7月21日夜、グアム島で奉焼。連隊長・末長常太郎陸軍大佐以下玉砕した。 歩兵第18連隊(1944年7月25日夜に奉焼)グアムの戦い下の1944年7月25日夜、グアム島で奉焼。連隊長・大橋彦四郎陸軍大佐以下玉砕した。 歩兵第50連隊テニアンの戦い下の1944年8月2日、テニアン島で奉焼。連隊長・緒方敬志陸軍大佐以下玉砕した。 歩兵第33連隊レイテ島の戦い下の1944年10月22日、レイテ島で奉焼。連隊長・鈴木辰之助陸軍大佐以下玉砕した。 歩兵第9連隊(1944年10月頃に奉焼)レイテ島の戦い下の1944年10月頃、レイテ島で奉焼。連隊長は神谷保孝陸軍大佐 歩兵第20連隊(1944年10月頃に奉焼)レイテ島の戦い下の1944年10月頃、レイテ島で奉焼。連隊長は鉾田慶次郎陸軍大佐。 歩兵第2連隊(1944年11月24日夜に奉焼)ペリリューの戦い下の1944年11月24日夜、奉焼。連隊長・中川州男陸軍大佐は自決、連隊残存将兵は万歳突撃により玉砕した。 歩兵第145連隊(1945年3月14日に奉焼)硫黄島の戦い下の1945年(昭和20年)3月14日、硫黄島で奉焼。連隊長・池田増雄陸軍大佐以下玉砕した。 歩兵第22連隊(1945年6月24日頃に奉焼)沖縄戦下の1945年6月24日頃、沖縄南部で奉焼。連隊長・吉田勝陸軍大佐以下玉砕した。 歩兵第89連隊(1945年6月24日頃に奉焼)沖縄戦下の1945年6月24日頃、沖縄南部で奉焼。連隊長・金山均陸軍大佐以下玉砕した。 歩兵第278連隊(1945年8月16日に奉焼)ソ連対日参戦下の1945年8月16日、ソ連軍に包囲されたため奉焼。連隊は玉砕した。 歩兵第32連隊(1945年8月28日奉焼)沖縄戦において、6月23日の第32軍司令部壊滅後も戦闘を継続していた歩兵第32連隊は、終戦によりアメリカ軍に投降する前日に軍旗を奉焼した。連隊長は北郷格郎陸軍大佐。 歩兵第6連隊(1945年8月23日黎明、奉焼)金牛鎮の丘の上で連隊長、連隊旗手、連隊副官、軍旗旗護兵、軍旗小隊の一部が見守る中、宮城を遥拝後に爆薬を用いて爆発させて、奉焼した。軍旗を奉焼したその日、各大隊は東方を遥拝し軍旗に対して抜刀、着剣捧げ銃の礼をし、「海行かば」を斉唱し訣別式を実施した。 歩兵第10連隊(1945年9月16日夜明、奉焼)フィリピン島北部ルソンの山岳、バラングアグの丘陵にて、最後の別れを告げてから将兵の捧げ銃の中で奉焼した。 歩兵第113連隊(1944年9月)諸説ある 1.7日夕方 大尉が最後の切込みの際に襷掛けにした。(上等兵が目撃した。) 2.7日 大尉が横股陣地の中で奉焼した。 3.6日夜 大尉の腹に巻き、紋章は音部山と西山の間に埋めた。(大尉から中尉が聞いた) 歩兵第148連隊(1944年9月11日9時奉焼)騰越の戦いにて玉砕直前に『涙とともに奉焼』
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