軍事拠点としてのハワイ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/28 15:05 UTC 版)
「ハワイの歴史」の記事における「軍事拠点としてのハワイ」の解説
アメリカ合衆国の併合により、既存の労働契約が無効化され、契約移民としてハワイに多数居着いていた日本人労働者がその過酷な労働契約から解放された。彼らは洪水のようにアメリカ本土への渡航をはじめ、1908年までに、3万人強の日本人がアメリカへ移住したとされている。こうした日本人移民が問題視され、アメリカでの排日移民運動へと繋がった。1907年に転航禁止令が布かれ、翌1908年には日米間で行政処置としてアメリカ行き日本人労働者の渡航制限を設ける日米紳士協約が交わされた。また、ハワイ本土においてストライキが法的に有効になったことを受け、これを挙行する労働者が増加した。 アメリカでの排日運動が活発化するにつれ、ハワイにおいても日本人に対する風当たりは日に日に厳しいものとなっていった。当時ハワイに住む2万人を超える日本人の子供たちのためにハワイでは150校以上の日本語学校が開設されていたが、国粋主義を吹き込んでいるとの批判がなされた。こうした日本人の生活形態や日本人労働者やその子供に対する批判は英字新聞によって頻繁に取り上げられ、日本人排斥論として世論を形成していった。こうした批判からくる不信感はやがて共産主義者の陰謀論などと結びつけて日本人に対する恐怖感や嫌悪感を市民に助長する結果となった。そんな中で、第一次世界大戦が終結し、生産の機械化や合理化が労働を奪い、アメリカに不況の波が押し寄せると、移民の数を制限しようとする動きが出てきた。1924年には移民数の上限を15万人に制限する法案が可決され、その割当数は北欧系に有利なものとされた。 1941年12月7日、日本軍による真珠湾攻撃が行われた。約8時間半後の午後4時半にはハワイ全土に戒厳令が布かれ、1944年10月24日に解除されるまで、多くの戦時規制がなされた。ハワイは重要な軍事拠点としてその役割を果たすこととなり、軍事基地の建設が加速し、太平洋戦遂行の本部としてイオラニ宮殿に軍事政府が新設された。裁判権も軍の管理下におかれ、逮捕令状無しでの拘束が認められた。住人には門限が設定され、身分証の携帯が義務付けられ、指紋登録が強制された。電話の盗聴が実施され、全ての出版物、手紙が検閲の対象となり、日本語によるラジオ放送などは即座に禁止された。 同時に、日系人に対する不信感はさらに高まり、1942年1月5日には徴兵年齢の日系2世男子は4C(敵性外人)に分類され、すでに徴兵・編入されていた日系兵士は解任・除隊させられた。日本語学校教師やジャーナリストなど、「特に危険」とされた1500人にも上る日本人・日系人が強制収容所へ送られた。ハワイ地方防衛軍として国防に従事していた日系2世シゲオ・ヨシダは防衛総司令官デロス・エモンズにアメリカに対する忠誠を誓う嘆願書を送付し、日系人による陸軍部隊である第442連隊戦闘団の前身となる大学勝利奉仕団 (V.V.V) を結成した。 また、当時人口約26万人だったハワイに、100万人とも言われる兵士と10万人近い新しい労働者たちがやってきた。軍需景気に沸くかたわら、男女比は著しく不均衡となり、アメリカ本土では1941年に兵士に対する売春行為が禁止されていたにもかかわらず、特例的に認可される程であった。こうした現象は地元の女性にとっては脅威となり、アメリカ人兵士によるレイプ犯罪は後を絶たなかった。 1942年6月、ミッドウェー海戦でアメリカ軍が勝利を掴み、日本軍によるハワイ侵攻の可能性が低減すると、1943年に灯火管制が解除され、1944年10月に戒厳令が解除された。翌年、第二次世界大戦が終結すると、ハワイでの日常に変化が見られるようになる。それまで白人に牛耳られていた政治・経済体制が、一時的にせよ権力を取り上げられたことで弱体化し、1946年に発生したストライキでは初めて労働者側が賃上げに成功した。また、アメリカ本土からやってきた兵士たちにとって、戦地へ赴くための一時の安息地として機能したハワイは彼らに「ハワイは身近な楽園」というイメージを広めた。これを契機として、戦争特需に代わるものとしてハワイは観光施設の拡充に着手し始め、後の観光都市としての第一歩を踏み出すようになる。
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