路線網の動き
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/07 22:14 UTC 版)
網走管内の事業者を寄せ集めで発足したため営業路線が連続しておらず、路線網の整備が急がれた。統合後最初の新規路線は1944年(昭和19年)6月23日免許の温根湯から伊頓武華鉱山二又までの伊頓武華線で、1948年(昭和23年)3月12日免許の北見から置戸までの置戸線、1950年(昭和25年)9月28日の網走から古樋までの古樋線免許により離れ小島状態は解消された。その後も北見から美幌、開成経由津別、栄森経由美幌、端野経由日吉や網走、紋別への長距離路線、各町村内や近郊路線がなどが開設された。ほかに観光路線として1958年(昭和33年)11月18日に北見相生から阿寒湖畔まで路線延長し阿寒線を、1959年(昭和34年)2月13日にイトムカ大町から上川駅前まで路線延長し層雲峡線を開設。北見経由で上川から阿寒湖畔までの直通便も運行され、大雪山国立公園と阿寒国立公園の間を1台のバスで移動できる周遊ルートができている。1963年(昭和38年)には遠軽から湧別・計呂地・サロマ湖沿岸を経由して常呂駅までを結ぶサロマ湖観光線が開設された。北見市内線は1959年(昭和34年)4月3日に本社前から柏陽高校まで運行したのが最初である。 しかし、昭和30年代後半から自家用車の急速な普及や過疎化の進行により乗客が減少傾向となり、路線維持補助金を受けてもなお赤字の路線を中心に改廃が進められることになった。各町村内を含む過疎地路線や主要道路から分岐する枝線系統の多くが対象となり、佐呂間町内は1971年(昭和46年)までに遠佐線・佐呂間線を除き、津別町内は1973年(昭和48年)までに津別線・相生線・阿寒線を除き、湧別町内は1974年(昭和49年)までに湧別・紋別線を除き廃止され、各自治体が廃止代替バスを運行している。この他でも路線廃止・自治体が引き継いだ路線があり、白滝村では1970年(昭和45年)4月1日の路線廃止による代替はスクールバスで行ったためバス路線自体が消滅している。各地の営業所や駐車所は路線縮小により順次閉鎖された。 昭和50年代に入っても乗客減少は止まらず、1981年(昭和56年)度は網走管内の路線バス事業者5社のうち黒字決算となったのは1社のみであった。この間に数度の運賃値上げを行ったが改善されず、1984年(昭和59年)10月1日に留辺蘂から置戸までの秋田線が廃止されたほか、北見近郊路線においても路線短縮等を行った。度々の運賃改定に運輸省は乗客サービスの向上を指導。北見市内均一運賃定期券の記名式から持参人式への変更、昼間割引回数券の対象時間拡大などが行われたが、1986年(昭和61年)11月1日には国鉄石北本線に西北見駅(北見緑陵高校最寄り)と愛し野駅(北見商業高校最寄り)が開設され、安定的な定期券収入が見込める通学客が安価な鉄道に転移するなど大きな影響を受けた。 1987年(昭和62年)9月、道北バスと共同で旭川とを結ぶ都市間バス路線の開設を申請した。10月に認可となり11月2日より「特急石北号」として両社1往復ずつの2往復で運行を開始。運賃の安さや45人乗りの専用車両投入が奏効し好調な滑り出しを見せた。これに対し北海道旅客鉄道(JR北海道)では1988年(昭和63年)3月19日より、それまで繁忙期に運行していた急行「大雪82・83号」を急行券が不要な特別快速に変更し、付帯サービスを都市間バスに近づけた専用車両を用いた「きたみ」の運行を開始。特急「オホーツク」と大差ない所要時間で運行され、こちらも好調なスタートを見せた。特急石北号では同年5月1日より4枚綴りの回数乗車券を発行。同年11月22日より4往復に増やし、旭川からJR北海道の特急列車や北海道中央バスの「高速あさひかわ号」に乗り換えて札幌までも安価に行ける点などをアピールし対抗している。特急石北号の運行は増収に寄与したがそれ以上に一般路線の落ち込みが激しく、1989年(平成元年)度では名寄本線廃止に伴うバス代行引き受けによる大幅な増収を含めて前期比1.3 %の伸びとなった。
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