被害者遺族の活動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 00:14 UTC 版)
「闇サイト殺人事件」の記事における「被害者遺族の活動」の解説
被害者Aの母親Bは事件後、8月28日(Aの通夜が営まれた日)に、「犯人たちを絶対に許さない」とする報道各社向けの手記を発表。その後、「日本の法律では、過去の例からも1人を殺しただけでは死刑にならない。被害者が2人以上でないと死刑は難しい」という内容の手紙が届いたが、具体的に何をすべきか迷っていたところ、当時住んでいた市営住宅の棟長から「死刑嘆願の署名活動を考えている」と伝えられたことをきっかけに、9月には加害者3人への死刑適用を求める署名活動の開始を決意。初公判までに30万人分の署名を集めることを目標に、同月中旬から署名活動を開始した ほか、報道機関の取材に積極的に協力したり、ホームページ(#外部リンクを参照、同月22日に設立)を通じて署名活動への協力を呼びかけたりした。同月27日以降は名古屋市の繁華街(名駅・栄)でも署名活動を実施し、初公判直前(2008年9月時点)で284,000人分の署名を集め、2012年8月25日に終了するまでに、332,806名分の署名が集まった。また、第一審の第13回公判(2008年12月8日)、控訴審の第3回公判(2010年10月18日)ではそれぞれ証人として出廷し、被告人らへの死刑適用を求めた。 また、Bは当時の鳩山邦夫法務大臣や、検事総長に対し、それぞれ請願の手紙を送ったほか、平成23年度版『犯罪被害者白書』に手記を寄せた。また、「緒あしす」や「宙の会」といった犯罪被害者の自助団体に参加したり、犯罪被害者遺族の支援拡大を訴え、講演などの活動を行っている。以下は主張・希望の概要である。 「加害者の更生という未来の不確定なことを前提にして裁くのではなく、まじめに生きている人を守ることを優先して裁く司法であってほしい」 死刑制度は存置すべきで、日本弁護士連合会(日弁連)が2016年10月7日に採択した「2020年までに死刑制度の廃止を目指す」とする宣言 には反対。死刑反対論者は、自分や大切な人がいつ犯罪に巻き込まれるかもしれないということを想像すべきだ。 裁判官は(殺害された)被害者の数だけでなく、犯罪内容を見て裁くべきだ。 被疑者や被告人だけでなく、被害者やその家族の人権や処遇を憲法に明記すること。 有害サイトの規制強化が必要。 また、「加害者3人からの謝罪は望んでいない」と明言し、堀が本事件の刑事裁判で自身に謝罪した一方、それ以前の余罪(碧南事件など)を自供せず隠していたことや、「山下」が第一審判決後に「悪いことはばれなきゃいい」と発言したことを厳しく批判している。
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被害者遺族の活動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/14 05:26 UTC 版)
「名護市女子中学生拉致殺害事件」の記事における「被害者遺族の活動」の解説
被害者Aの父親は事件後、毎日のように自身で車を運転して県内を探し回り、白いワゴン車の目撃者から話を聞いて回った。『女性セブン』記者の取材に対し、Aの母親は、夫(Aの父親)について「事件後、仕事のある日は仕事が終わってから、休日は朝7時ごろから夜10時ごろまで沖縄中の車が通れる道をすべて探し回っていた」と、近隣住民は「毎日のように夫婦でAを探していた。休日にはAの妹も一緒に出掛けていたが、妹は留守番する際、父に対し『お姉ちゃんを連れて帰ってきてね』と言っていた」と述べている。彼は警察による組織的捜索が終わった7月以降も、娘の生存を信じて地元有志とともに、自主的な捜索活動を継続していた。同年11月、Aの父は医師から自律神経失調症と診断されたため、上司に休職を勧められ、同月初めには勤務先に休職願いを出したが、その後も娘を探し続けていた。同年12月、情報提供を求めるビラを配っていたAの両親に対し、親戚の女性が「Aちゃん、かわいそうに」と声を掛けたところ、Aの父は「Aはまだ生きてるんだから、そんなふうに言わないでください」と言っていた。また、Aの伯父(本島中部在住)や兄弟も事件以降、仕事や学校を休んで捜索活動を行っていた。 Aの父親は事件後、「九州・沖縄犯罪被害者連絡会」(みどりの風)に所属し、同会により2016年・2019年にそれぞれ那覇市内で開催された「九州・沖縄犯罪被害者大会in沖縄」の大会実行委員長を務めた。2003年(平成15年)12月7日付の『琉球新報』では、島尻郡佐敷町(現:南城市)在住の女性が被害者Aの父親に対し、Aを追悼する歌2曲を収録した自主制作CDを贈呈したことが報じられた。 遺棄現場(国頭村楚洲)には、事件後の1997年3月、ボランティア団体・子どもたちを守る会「花」によって、被害者の慰霊と事件の再発防止を願い、「少女の涙に虹がかかるまで」と書かれた木製のモニュメント(標柱)が建てられた。また、同年6月には、被害者Aの遺族やボランティアにより、白い御影石製の観音像「悲母救花観音」(ひぼくげかんのん)も建立された。それ以降、Aの遺族や支援者らが献花・焼香を年2回行っているほか、事件から25年が経過した2021年(令和3年)6月時点では、名護署や事件発生時に捜査に携わった県警OBらも、「沖縄被害者支援ゆいセンター」や、子どもたちを守る会「花」と連携し、慰霊と事件の風化防止のため、遺棄現場の周辺を清掃したり、献花・焼香を行ったりしている。
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