第5の哨戒 1942年12月 - 1943年1月
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/24 11:20 UTC 版)
「グレイバック (SS-208)」の記事における「第5の哨戒 1942年12月 - 1943年1月」の解説
12月7日、グレイバックは5回目の哨戒でソロモン諸島方面に向かった。一週間後、乗組員の一人が盲腸で倒れるというハプニングに出くわした。グレイバックは100フィートの深度に潜航した上で、薬剤師出身のハリー・B・ロビーが盲腸の切除手術を執刀することになった。ロビーは薬剤師であっても外科学は教育を受けておらず手術に関しては素人であったが、12月8日未明にかけて手術を行い何とか盲腸を切除することに成功。患者は哨戒終了まで安静にするよう指示され、とりあえず一命は取り留めた。12月25日未明、グレイバックは4隻の艀を発見し、浮上して3インチ砲の砲撃によりこれらを一掃した。4日後の12月29日、モノ島南西50浬地点付近で浮上して航行中、伊31に発見されて雷撃を受けるも回避。年明けて1943年1月2日には南緯08度32分 東経157度10分 / 南緯8.533度 東経157.167度 / -8.533; 157.167の地点で駆逐艦を発見してやりすごす。日付が1月3日に変わった直後には南緯08度49分 東経157度09分 / 南緯8.817度 東経157.150度 / -8.817; 157.150ののニューブリテン島南方沖で、輸送任務中の伊18を発見し雷撃したものの、魚雷は早爆したらしく命中せず、伊18は潜航して離脱していった。1月5日、グレイバックは味方爆撃機隊の誘導および救助任務のためムンダ近海に向かっていた。その朝、グレイバックの元に「ムンダのさる集落に、撃墜されたB-26 マローダーのクルー6名が匿われている」という情報が届けられた。グレイバックはムンダ沿岸に到着し、まず2名の乗組員、デーヴィス大尉とブルックス大尉を連絡のため上陸させた。夜明けとともに、グレイバックは敵機に発見されないよう潜航。その間に上陸した乗組員はジャングルの中に、負傷して寝かされている3名のパイロットを発見。夜になってからデーヴィス大尉とブルックス大尉は海岸から発光信号を送り、グレイバックはこれに答えて浮上。パイロットと小さなボートを収容した。グレイバックは哨戒を再開し、1月16日には南緯07度22分 東経156度15分 / 南緯7.367度 東経156.250度 / -7.367; 156.250の地点で大型輸送船と駆逐艦を、1月17日にも南緯06度41分 東経154度40分 / 南緯6.683度 東経154.667度 / -6.683; 154.667の地点で駆逐艦に護衛された別の大型船をそれぞれ発見。グレイバックは、前者の攻撃では2つの命中音を聴取し、後者の攻撃においては駆逐艦を片付けてから大型船を攻撃しようと、駆逐艦に向けて魚雷を発射。しかし、駆逐艦は回避し、グレイバックに19発の爆雷を投下した。そのうちの1発がハッチの上で爆発し、グレイバックはガスケット部に軽度の損傷を被った。1月23日、グレイバックは47日間の行動を終えてブリスベンに帰投。パイロット救助の功により、ステファン艦長に海軍十字章が授けられた。
※この「第5の哨戒 1942年12月 - 1943年1月」の解説は、「グレイバック (SS-208)」の解説の一部です。
「第5の哨戒 1942年12月 - 1943年1月」を含む「グレイバック (SS-208)」の記事については、「グレイバック (SS-208)」の概要を参照ください。
第5の哨戒 1942年12月 - 1943年1月
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/01 14:57 UTC 版)
「トートグ (潜水艦)」の記事における「第5の哨戒 1942年12月 - 1943年1月」の解説
12月15日、トートグは5回目の哨戒でジャワ海、バンダ海方面に向かった。12月24日、トートグは南緯08度40分 東経124度30分 / 南緯8.667度 東経124.500度 / -8.667; 124.500のオンバイ海峡を航行中に特設給糧船第二播州丸(西大洋漁業、998トン)を発見。翌12月25日の3時過ぎまで追跡したあと、魚雷を3本発射。うち2本が命中し第二播州丸を撃沈した。トートグは西に向かって逃げたが、監視艇に発見されて10時間にわたって制圧された。制圧から逃れたあとも、なおも西に向かったトートグは、アロール海峡で貨物船と思われる船と護衛艦を発見。しかし、相手は突然トートグに向かってきたので、これは対潜掃討部隊であると判断したトートグは、魚雷を発射したのち深く潜航して反撃が収まるのを待ち、静かになってから哨戒を再開した。1943年1月5日、トートグは左舷艦首方向に帆船を発見。接近して調べてみると、12名のムスリムと4名の女性、それに何人かの子供とヤギ、ニワトリが乗っていた地元民の船だった。トートグは帆船の航海日誌を調べたあと、帆船を解放した。1月9日10時38分、トートグは南緯04度07分 東経128度32分 / 南緯4.117度 東経128.533度 / -4.117; 128.533のアンボン島近海で軽巡洋艦名取を発見した。名取は前日に被爆し航行不能となった水雷艇友鶴と、それを曳航する初雁を警戒すべく出撃していたが、水上偵察機などに任務を譲ってアンボンに帰投するところであった。トートグは名取を左前方に見て接近し、3分後、名取までの距離が2,700メートルになったところで魚雷を発射。10時43分、発射した魚雷のうち1本が名取の後部に命中し、名取は命中部分から後を亡失した。ソナーで名取のスクリュー音が止まったことを確認したあと、7分後にトートグは2回目の攻撃で魚雷2本を発射したが、この魚雷は命中しなかった。名取は14センチ砲でトートグの潜望鏡を撃ったあと、アンボンに入港していった。トートグは九四式水偵の爆撃を受けたが、幸いにも投下した対潜爆弾は不発だった。1月22日、トートグはカバエナ島近海でガソリンを輸送していた八洲丸(拿捕船、元オランダ船マイマー、1,873トン)を発見し魚雷を3本発射。魚雷は八洲丸に命中してこれを撃沈した。翌1月23日、トートグはサラヤル海峡で再び名取に出くわした。名取は先の被雷後アンボンで修理していたが、これを嗅ぎつけたオーストラリアからのB-24によって更なる被害を受けたため、敷設艦蒼鷹の護衛でマカッサルに下がるところであった。名取と蒼鷹はトートグのはるか後方にいたが、この時は艦尾発射管に魚雷は残っておらず、トートグはUターンして名取に向けて魚雷4本を発射した。この時、シーグラフ艦長はこの時の名取を「名取とは別の軽巡洋艦」と判断していた。しかし、魚雷は名取の後方をかすめ去って命中しなかった。名取はトートグのいる海面を14センチ砲で制圧し、蒼鷹は爆雷を投下。上空護衛の九四式水偵も対潜爆弾を降下したが全く効果はなかった。トートグはこの攻撃で全ての魚雷を使い果たした。トートグはこの哨戒で2隻6,900トンの戦果を挙げたと主張したが、戦後に2隻2,900トンに修正された。1月30日、トートグは46日間の行動を終えてフリーマントルに帰投した。
※この「第5の哨戒 1942年12月 - 1943年1月」の解説は、「トートグ (潜水艦)」の解説の一部です。
「第5の哨戒 1942年12月 - 1943年1月」を含む「トートグ (潜水艦)」の記事については、「トートグ (潜水艦)」の概要を参照ください。
第5の哨戒 1942年12月 - 1943年1月
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/12/26 20:34 UTC 版)
「タンバー (潜水艦)」の記事における「第5の哨戒 1942年12月 - 1943年1月」の解説
12月18日、タンバーは5回目の哨戒でスンダ海峡方面に向かった。クラカタウとシャートウェイ島の間を哨戒、12月30日、タンバーは千鳥型水雷艇と思しき艦艇を発見したものの、射程内に入ってこなかった。2日後の1943年1月1日にも再び千鳥型水雷艇と思しき艦艇を発見し、魚雷を4本を発射。しかし魚雷は命中せず、逆に18発の爆雷を投下された。タンバーは巧みに反撃をかわして戦場を離脱した。1月28日、タンバーは46日間の行動を終えてフリーマントルに帰投した。
※この「第5の哨戒 1942年12月 - 1943年1月」の解説は、「タンバー (潜水艦)」の解説の一部です。
「第5の哨戒 1942年12月 - 1943年1月」を含む「タンバー (潜水艦)」の記事については、「タンバー (潜水艦)」の概要を参照ください。
- 第5の哨戒 1942年12月 - 1943年1月のページへのリンク