第5の哨戒 1943年4月 - 5月
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「ワフー (SS-238)」の記事における「第5の哨戒 1943年4月 - 5月」の解説
4月25日、ワフーは5回目の哨戒で千島列島方面に向かった。5月3日に松輪島を写真偵察した後択捉島沖に移動。翌5月4日、ワフーは北緯45度52分 東経149度07分 / 北緯45.867度 東経149.117度 / 45.867; 149.117の択捉島の南東で特設水上機母艦君川丸(川崎汽船、6,863トン)を発見し、魚雷3本を発射して1本が命中したと判断されるが、実際には被害はなく、君川丸は爆雷で反撃して去っていった。3日後の5月7日、ワフーは北緯40度04分 東経141度57分 / 北緯40.067度 東経141.950度 / 40.067; 141.950の地点で、海岸線沿いに航行中の輸送船と護衛艦を発見して魚雷を計6本発射し、輸送船第五多聞丸(八馬汽船、5,260トン)には2本のうち1本が命中したものの、護衛艦には4本とも命中しなかった。第五多聞丸はまもなく沈没していき、ワフーは三陸海岸に沿って南下していった。翌5月8日午後にも北緯39度02分 東経142度02分 / 北緯39.033度 東経142.033度 / 39.033; 142.033の地点で金龍丸型特務艦と思しき輸送船を発見し、魚雷を3本発射したが命中しなかった。目標の発見は続く。5月9日未明、ワフーは北緯38度57分 東経141度49分 / 北緯38.950度 東経141.817度 / 38.950; 141.817の気仙沼湾沖でレーダーにより「9,000トン級輸送船」と「10,000トン級タンカー」がいる事を探知。ワフーは2つの目標に魚雷を3本ずつ計6本発射し、2隻の輸送船、高雄丸(川崎汽船、3,204トン)と神武丸(栗林商船、1,912トン)に命中させ両船を撃沈した。ワフーはさらに南下し、東京と幌筵島間の航路と思われる海域でパトロールし、5月12日夕刻に北緯38度40分 東経142度53分 / 北緯38.667度 東経142.883度 / 38.667; 142.883の地点で4,000トン級輸送船と9,000トン級貨客船を発見。ワフーは2隻に対して魚雷を2本ずつ計4本発射し、9,000トン級貨客船に1本が命中したように感じられた。9,000トン級貨客船に対しては、さらに魚雷を1本ずつ計2本発射し命中させたが、無味乾燥な響きしか聞こえてこなかった。ワフーは浮上砲戦に持ち込んだが、2隻とも結局撃沈することはできなかった。ワフーは5月4日からの10日間で8隻の目標に対し10回の雷撃を実施したが、魚雷の不調により満足すべき戦果は得られなかった。 5月21日、ワフーは26日間の行動を終えて真珠湾に帰投。翌日、アメリカ太平洋艦隊司令長官チェスター・ニミッツ大将が来艦し、授章式が行われた。5月23日、ワフーはオーバーホールのためメア・アイランド海軍造船所に回航され、7月20日まで修理と訓練に従事した。これに先立ち、副長のオカーン大尉が建造中のタング (USS Tang, SS-306) 艦長として転出していった(結果として、オカーン大尉はワフー乗組員中唯一戦争を生き残ることとなる)。ワフーは7月27日に真珠湾に戻り、8月2日にはミッドウェー島に進出した。
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