第3、第4、第5の哨戒 1942年5月 - 12月
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/10 21:17 UTC 版)
「サーモン (SS-182)」の記事における「第3、第4、第5の哨戒 1942年5月 - 12月」の解説
5月3日、サーモンは3回目の哨戒で南シナ海およびインドシナ半島方面に向かった。初めはジャワ島南岸に沿って哨戒し、日本船団の迎撃を行った。その後、5月17日から19日にかけてシブツ水道とバラバク海峡を通過して南シナ海に入った。5月25日夜、サーモンはカムラン湾南東で工作艦朝日に対して雷撃を行い、これを撃沈した。サーモンは朝日を軽巡洋艦夕張だと判断していた。3日後の5月28日夜には、平時と変わらずサイゴン航路に就航していた貨客船がんぢす丸(大阪商船、4,382トン)に魚雷を2本命中させて撃沈した。6月24日、サーモンは49日間の行動を終えてフリーマントルに帰投した。 7月21日、サーモンは4回目の哨戒で南シナ海に向かった。ロンボク海峡とマカッサル海峡、シブツ水道を経てスールー海を通過し、バラバク海峡を経由して、北ボルネオとフィリピンのパラワン州間の哨戒海域に到着した。この哨戒の間でのサーモンの攻撃は8月7日に唯一行われたのみで戦果を挙げることはできなかったが、近辺の姉妹艦へ数多くの敵艦の観測および報告を通知した。9月8日、サーモンは49日間の行動を終えてフリーマントルに帰投した。 10月10日、サーモンは5回目の哨戒でルソン島方面、コレヒドール島沖およびスービック湾口に向かった。11月10日の夜、サーモンはスービック湾の近くを移動する大型サンパンに対して警告を行う。船は警告を無視した後停船を命じられ、サーモンは船首に砲撃を行った。その後検査を行うためサーモンはサンパンに接近したが、サンパンは甲板室に旭日旗を掲示しており、乗組員は反対側から積み荷を投棄しようとしていた。サーモンの乗員は50口径機銃で銃撃を行った。サンパンは停止しサーモンの乗員が乗船したが、日本兵は反対側から海に飛び込んだ後であった。彼らは文書や無線機、その他の指令書を廃棄しサンパンを炎上させた。サーモンが離れると共に、敵船は爆発し沈没した。11月17日、サーモンはマニラ湾入り口でマニラに入りつつあった第726船団を発見し、攻撃のため移動した。それぞれの船に対して雷撃を行い、2隻のタンカーに損傷を与えたと判断され、もう1隻の貨物船おれごん丸(川崎汽船、5,873トン)を撃沈した。12月7日、サーモンは58日間の行動を終えて真珠湾に帰投。翌12月8日にメア・アイランド海軍造船所に向けて出航し、13日に到着。改修作業のため1943年3月30日まで同所に留まった。改修には新型レーダーの装備および20ミリ機銃の装着、艦橋形状の改修等が含まれた。作業完了後、1943年4月8日に真珠湾に戻った。この間に、艦長がニコラス・J・ニコラス少佐(アナポリス1932年組)に代わった。
※この「第3、第4、第5の哨戒 1942年5月 - 12月」の解説は、「サーモン (SS-182)」の解説の一部です。
「第3、第4、第5の哨戒 1942年5月 - 12月」を含む「サーモン (SS-182)」の記事については、「サーモン (SS-182)」の概要を参照ください。
- 第3、第4、第5の哨戒 1942年5月 - 12月のページへのリンク