第3、第4、第5の哨戒 1942年9月 - 1943年4月
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「ノーチラス (潜水艦)」の記事における「第3、第4、第5の哨戒 1942年9月 - 1943年4月」の解説
9月15日、ノーチラスは3回目の哨戒で日本近海に向かった。9月27日22時過ぎ、ノーチラスは北緯40度37分 東経141度00分 / 北緯40.617度 東経141.000度 / 40.617; 141.000の地点で第六多聞丸(八馬汽船、4,994トン)を発見し砲撃。相手の反撃を排除しつつ潜航して攻撃を続け、被弾した第六多聞丸は曳航されたものの翌9月28日朝に八戸沖で沈没した。10月1日には尻屋埼灯台沖で南西に向けて航行中の東生丸(岡田商船、2,432トン)を雷撃し、魚雷3本を命中させて撃沈した。10月11日、ノーチラスは宮古近海で潜航南下中に爆撃を受けた。ノーチラスは以後数日間にわたって攻撃を受け続け、特に10月12日から13日にかけては駆逐艦野風、沼風を含む艦艇群による爆雷攻撃を受けた。この攻撃で後部魚雷発射管のうち2つが浸水、6インチ砲の金具も圧壊し、各種機器類も不具合が生じた。ノーチラスは何とか虎口を逃れると、応急修理の上哨戒を続け北上した。10月25日未明には北緯41度10分 東経141度38分 / 北緯41.167度 東経141.633度 / 41.167; 141.633の尻屋埼灯台沖で乾雲丸(乾汽船、4,643トン)を撃沈。さらにサンパンも撃沈した。ノーチラスは10月31日にミッドウェー島に寄港。11月5日、ノーチラスは56日間の行動を終えて真珠湾に帰投した。 12月13日、ノーチラスは4回目の哨戒でソロモン諸島方面に向かった。12月31日、ノーチラスはトエプ港で3名の子供を含む26名の避難民を救助、収容作業は年を越して行われた。作業終了後、ノーチラスは哨戒を続け、1943年1月9日には南緯06度10分 東経156度00分 / 南緯6.167度 東経156.000度 / -6.167; 156.000の地点で吉野川丸(東洋海運、1,422トン)を撃沈。1月19日にはツラギ島西方270海里地点で駆逐艦秋月を発見し、魚雷2本を命中させ撃破したが、1本は不発であった。2月4日、ノーチラスは55日間の行動を終えてブリスベンに帰投した。その後、ノーチラスは真珠湾に回航され、4月15日に到着。5日後の4月20日にダッチハーバーに向けて回航、4月27日に到着した。 5月1日、ノーチラスは5回目の哨戒でアリューシャン列島方面に向かった。ノーチラスにはアッツ島に極秘上陸させる第7歩兵特別部隊のうちの109名を乗せていた。5月11日、ノーチラスはアッツ島の北端近海でナーワル (USS Narwhal, SS-167) と会合。ナーワルもアッツ島に極秘上陸させる部隊105名を乗せており、この2つの部隊は、来るべきアッツ島の戦いに先駆けて一種の露払いとして予備的に上陸するものであった。アッツ島への本格上陸作戦が行われる前日の5月11日、ノーチラスとナーワルはゴムボートに移乗した部隊をアッツ島のスカーレットビーチに無事上陸させて任務を果たした。5月25日、ノーチラスは36日間の行動を終えて真珠湾に帰投。メア・アイランド海軍造船所に回航されてオーバーホールに入った。艦長がウィリアム・D・アーヴィン(アナポリス1927年組)に代わった。
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