第3、第4、第5、第6の哨戒 1942年3月 - 1943年1月
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「スピアフィッシュ (サーゴ級潜水艦)」の記事における「第3、第4、第5、第6の哨戒 1942年3月 - 1943年1月」の解説
3月27日、スピアフィッシュは3回目の哨戒でコレヒドール島、スールー海およびリンガエン湾に向かった。4月17日、スピアフィッシュは北緯10度53分 東経121度35分 / 北緯10.883度 東経121.583度 / 10.883; 121.583の地点で約4,000トンの貨物船の撃沈を報告。4月25日には北緯16度56分 東経120度11分 / 北緯16.933度 東経120.183度 / 16.933; 120.183の地点で陸軍輸送船鳥羽丸(日本郵船、6,995トン)を発見し、発射した2本の魚雷のうち1本が命中。被雷した鳥羽丸は沈没を避けるため、軽巡洋艦木曾に曳航されてサンフェルナンド近郊の海岸に擱座し、1ヵ月後に浮揚して修理のため基隆港まで曳航されたものの、損傷の度合いが大きいため基隆港で長く係留されることとなった。5月3日夜、スピアフィッシュはマニラ湾に入り、コレヒドール島からフリーマントルへ撤退する27名を乗艦させ、その中には海軍看護章および勲功章(英語版)を受章したアン・A・バーナティタス(英語版)も含まれた。スピアフィッシュは包囲された要塞が降伏する前に入港した最後のアメリカ軍潜水艦となった。5月20日、スピアフィッシュは54日間の行動を終えてフリーマントルに帰投した。 6月26日、スピアフィッシュは4回目の哨戒で南シナ海に向かった。7月26日、スピアフィッシュは北緯11度38分 東経109度32分 / 北緯11.633度 東経109.533度 / 11.633; 109.533の地点で5,300トン級貨物船に対して二度にわたり攻撃を行う。続く7月27日には北緯11度28分 東経111度52分 / 北緯11.467度 東経111.867度 / 11.467; 111.867のインドシナ半島沖で特設潜水母艦りおでじゃねろ丸(大阪商船、9,627トン)を発見。左舷艦首に魚雷1本を命中させて撃破した。8月17日、スピアフィッシュは52日間の行動を終えてフリーマントルに帰投した。 9月8日、スピアフィッシュは5回目の哨戒でルソン島方面に向かった。ロンボク海峡、マカッサル海峡を抜けてスールー海に入り、ルソン島西部の哨戒海域に到着した。この哨戒では9月24日と10月9日、10月24日に攻撃を行い、「3,000トン級敷設艦を撃沈して7,000トン級貨物船を撃破した」ことが報告された。哨戒終了後、スピアフィッシュはブリスベンに向かうよう指示された。11月11日、スピアフィッシュは64日間の行動を終えてブリスベンに帰投した。 12月2日、スピアフィッシュは6回目の哨戒でビスマルク諸島方面に向かった。スピアフィッシュはトラック諸島とラバウル、カビエン間の交通路を哨戒。しかし、多数の接触は得たものの距離が遠かったりして、ほとんど攻撃できなかった。1943年1月13日に哨戒海域を後にして真珠湾に向かったが、1月19日、スピアフィッシュは北緯04度44分 東経175度28分 / 北緯4.733度 東経175.467度 / 4.733; 175.467のマキン近海を潜航中、水上偵察機の爆撃を受け、60キロ対潜爆弾2発を投下。直撃は免れたものの、主電動機とトイレが損傷した。その一方、以前から収まり具合が良くなかった排気管の弁が、爆撃の振動で正しい位置に収まった。1月25日、スピアフィッシュは55日間の行動を終えて真珠湾に帰投。スピアフィッシュはオアフ島からメア・アイランド海軍造船所に向かい、2月3日から5月13日まで広範囲オーバーホールが行われた。オーバーホール中に、艦長がジョージ・A・シャープ少佐(アナポリス1929年組)に代わった。作業が終わると、スピアフィッシュは5月26日に真珠湾へ戻った。
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