第3、第4、第5の哨戒 1944年3月 - 9月
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「パドル (潜水艦)」の記事における「第3、第4、第5の哨戒 1944年3月 - 9月」の解説
1944年3月19日、パドルは3回目の哨戒でフィリピン南方およびモルッカ諸島方面に向かった。4月16日未明、パドルは南緯02度25分 東経127度24分 / 南緯2.417度 東経127.400度 / -2.417; 127.400のアンボンの北西120キロ地点でハルマヘラ島からアンボンに向かっていた輸送船団を発見した。船団は護衛艦3隻と輸送船4隻からなり、パドルは1時53分に魚雷を計10本発射し、輸送船第一日の丸(日の丸汽船、2,671トン)に魚雷を命中させ、第一日の丸は大爆発を起こし沈没にいたらしめ、3分後には陸軍輸送船水戸丸(日本郵船、7,061トン)にも魚雷を3本命中させて撃沈した。パドルはさらに戦果を拡大するため魚雷の装てんを急ぎ、明け方に「未明の攻撃で損傷したタンカー」に対して魚雷を4本発射したが命中せず、さらに攻撃しようとしたが護衛艦に阻止された。5月12日、パドルは54日間の行動を終えてフリーマントルに帰投した。 6月5日、パドルは4回目の哨戒でセレベス海およびダバオ湾(英語版)方面に向かった。折りしも、アメリカ軍がマリアナ諸島攻略を進めている最中であり、それを阻止するための日本艦隊の出撃も予想された。パドルの担当海域も艦隊の通過が予想されたが、結局何もなかった。6月30日、パドルは北緯03度01分 東経123度16分 / 北緯3.017度 東経123.267度 / 3.017; 123.267のセレベス海で哨戒中に爆撃を受け損傷を受けたが、すぐに修理を行って事なきを得た。7月6日、パドルは北緯03度24分 東経125度28分 / 北緯3.400度 東経125.467度 / 3.400; 125.467のサンギ島西岸沖で輸送船団を発見し、雨の中で魚雷を4本発射、魚雷は駆逐艦帆風に2本が命中してこれを撃沈した。パドルは二番目の駆逐艦に対しても魚雷を2本発射し、1本が命中したと判定された。7月9日未明には、中型輸送船と小型護衛艦を発見し、魚雷を3本発射したが回避された。7月29日、パドルは54日間の行動を終えてフリーマントルに帰投した。 8月22日、パドルは5回目の哨戒でスールー海に向かった。9月7日夕刻、パドルは北緯08度12分 東経122度37分 / 北緯8.200度 東経122.617度 / 8.200; 122.617のミンダナオ島シンダンガン岬沖で輸送船団を発見。タンカーに対して4本、輸送船に対して2本の魚雷を発射し、海軍徴傭船真洋丸(英語版)(拿捕船、2,634トン)に魚雷を3本命中させて船体を両断の上撃沈したが、この時真洋丸にはアメリカ軍の捕虜772名が乗船しており、船体分断により、後部船倉に乗っていた捕虜500人は全員が真洋丸と運命をともにした。また、日本側の機銃掃射等で前部船倉に乗っていた捕虜272名のほとんどが死亡した。別の魚雷は特設運送船(給油)第二永洋丸(日本油槽船、5,061トン)に命中し、同船は沈没を防ぐため座礁した。この時、座礁した第二永洋丸の周囲を泳いでいた捕虜数十名が同船に救助されたが、錨庫に隠れていて、陸岸に逃れた1名を除く全員がその夜、同船上で射殺された。捕虜は真洋丸から脱出した84名と、真洋丸とともに運命をともにしたり、日本側の機銃掃射などで殺害された688名に大別され、前者のうち1名は岸にたどり着いたときに死亡し、他の1名はフィリピンに残った。残る82名はオーストラリア経由で生還し、アメリカ本国で幾度か会合を開いている。第二永洋丸は離礁した後、9月12日に回航先のセブで第38任務部隊(マーク・ミッチャー中将)の艦載機によって撃沈された。9月25日、パドルは34日間の行動を終えてミオス・ウンディ島に帰投。艦長がジョゼフ・P・フィッツパトリック少佐(アナポリス1938年組)に代わった。
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