第3、第4、第5の哨戒 1945年2月 - 7月
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「バヤ (潜水艦)」の記事における「第3、第4、第5の哨戒 1945年2月 - 7月」の解説
2月10日、バヤは3回目の哨戒で南シナ海に向かった。3月4日、バヤは北緯12度52分 東経109度30分 / 北緯12.867度 東経109.500度 / 12.867; 109.500のインドシナ半島バレラ岬沖で輸送船団を発見した。これは南号作戦参加のヒ98船団で、タンカー2隻と海防艦4隻で構成されていた。バヤはタンカー2隻を一挙に撃沈すべく船団右後方から魚雷を発射。2本は良栄丸(日東汽船、10,016トン)に向かっていったが回避され、陸岸に命中して爆発。残り4本はぱれんばん丸(三菱汽船、5,236トン)の機関部と船体中央部に全て命中、ぱれんばん丸は大爆発を起こし炎上し、船尾が海底に着いた状態で轟沈した。バヤはこの後も同海域で哨戒を続け、3月21日には 北緯11度18分 東経108度57分 / 北緯11.300度 東経108.950度 / 11.300; 108.950の地点で南号作戦参加のヒ88i 船団を発見。折から飛来したB-25の大群と呼応して船団を攻撃し、バヤは特設駆潜艇開南丸(台湾総督府、524トン)を撃沈した。この時、護衛の第9号駆潜艇が反撃し、爆雷を21発投下してバヤを深度81メートルの位置まで吹き飛ばした。バヤのジャイロコンパスは狂い始め各種バルブが緩んだが、致命傷を受けずに済んだ。3月27日、バヤは46日間の行動を終えてスービック湾に帰投した。 4月20日、バヤは4回目の哨戒で南シナ海、タイランド湾およびジャワ海方面に向かった。5月2日、バヤはタイランド湾にタンカー1隻と護衛艦3隻で構成された船団を発見したことを、付近にいた僚艦ラガート (USS Lagarto, SS-371) に伝えた。バヤはラガートともに船団を攻撃したが、護衛艦の反撃で撃退された。バヤとラガートは会合し、翌5月3日の日の出頃に改めて攻撃することとした上で、バヤが船団から距離を置いて追跡し、ラガートが潜航しながら船団の懐に入り込む戦法が採用された。バヤは5月3日から4日にかけて何度も船団に接近して攻撃を仕掛けたが、反撃のために一指も触ることが出来なかった。おまけに、ラガートとは3日の交信を最後に音信不通となっており、後日ラガートは喪失を宣告された。バヤは南下して獲物を求め、5月13日に南緯06度31分 東経111度19分 / 南緯6.517度 東経111.317度 / -6.517; 111.317の地点で小船団を攻撃し、タンカー洋制丸(拿捕船、元オランダ船ヨセイット/飯野海運委託、2,594トン)を撃沈した。5月18日、バヤは28日間の行動を終えてフリーマントルに帰投した。 6月14日、バヤは5回目の哨戒でジャワ海および南シナ海方面に向かった。7月16日、バヤは南緯05度48分 東経115度53分 / 南緯5.800度 東経115.883度 / -5.800; 115.883の地点で、この時点でこの方面に残された数少ない日本艦艇である水雷艇雁を撃沈した。7月31日、バヤは41日間の行動を終えてスービック湾に帰投した。
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