第3、第4、第5の哨戒 1945年1月 - 6月
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「バーゴール (潜水艦)」の記事における「第3、第4、第5の哨戒 1945年1月 - 6月」の解説
1945年1月19日、バーゴールは3回目の哨戒で南シナ海に向かった。1月27日、バーゴールは南緯08度37分 東経115度39分 / 南緯8.617度 東経115.650度 / -8.617; 115.650のロンボク海峡で第102号掃海特務艇を撃沈したと主張した。1月30日には南緯08度26分 東経115度40分 / 南緯8.433度 東経115.667度 / -8.433; 115.667のロンボク海峡で給糧艦荒埼を撃破した。バーゴールはジャワ海を経て南シナ海に入った。2月7日、バーゴールは北緯11度53分 東経109度22分 / 北緯11.883度 東経109.367度 / 11.883; 109.367のカムラン湾口付近で南下してくるヒ93船団を発見。バーゴールは船団右側方から攻撃し、魚雷2本がタンカー東邦丸(飯野海運、10,238トン)の中央部と船首に命中したが、東邦丸は沈没しなかった。他の魚雷のうち1本は第53号海防艦の艦底を通過したところで爆発し、その衝撃で第53号海防艦のタンクが破壊され炎上し艦体は切断、沈没した。この後、北号作戦参加の戦艦日向、伊勢以下の艦隊を迎撃するよう命令を受けた。2月13日、バーゴールは僚艦ブロワー (USS Blower, SS-325) の隣の哨区で艦隊を待ち構えた。やがて、艦隊が出現。まずブロワーが至近距離から雷撃したが命中しなかった。バーゴールは北緯15度34分 東経110度50分 / 北緯15.567度 東経110.833度 / 15.567; 110.833の地点で、ブロワーに続いて4,400メートルの距離で魚雷6本を発射し命中音を1つ聴取したが、この攻撃は失敗に終わった。2月17日、バーゴールは28日間の行動を終えてスービック湾に帰投した。 3月4日、バーゴールは4回目の哨戒で南シナ海に向かった。しかし、この哨戒では戦果を挙げることはなかった。4月17日、バーゴールは43日間の行動を終えてフリーマントルに帰投した。 5月12日、バーゴールは5回目の哨戒でタイランド湾方面に向かった。5月30日、バーゴールは北緯10度44分 東経99度30分 / 北緯10.733度 東経99.500度 / 10.733; 99.500の地点で5隻のバージと2隻のタグボートを撃沈した。バーゴールはその後もタイランド湾で行動したが、6月13日にバーゴールは北緯11度45分 東経99度50分 / 北緯11.750度 東経99.833度 / 11.750; 99.833の地点で味方が敷設した機雷に接触、船体後部を損傷した。バーゴールは応急修理のため哨戒を打ち切った。6月17日、バーゴールは37日間の行動を終えてスービック湾に帰投した。 この後、バーゴールは本格修理のため帰国の途に就き、1945年8月4日にポーツマス海軍造船所に到着。修理中に終戦を迎えた。なお、この間にバーゴールの艦長がトーマス・K・キンメル少佐に代わった。キンメル少佐は元合衆国艦隊兼太平洋艦隊司令長官ハズバンド・キンメル提督の息子で、ロバロー (USS Robalo, SS-273) 艦長として行方不明になったマニング・キンメル少佐(アナポリス1935年組)の弟であった。マニングが行方不明になった後、合衆国艦隊司令長官兼海軍作戦部長アーネスト・キングの直々の命令により、トーマスを戦死の危険性が極めて少ない後方での陸上勤務に配置換えした。これは、長男を失ったハズバンド・キンメルの心情を考慮したものと言われている。時が下ってトーマスに再び海上勤務の機会が与えられることとなったが、終戦によりバーゴールがキンメルの指揮下で実戦を戦うことはなかった。 バーゴールは第二次世界大戦の戦功で4個の従軍星章を受章した。
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