第3両用戦部隊司令官
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「セオドア・S・ウィルキンソン」の記事における「第3両用戦部隊司令官」の解説
1942年8月、ウィルキンソンは太平洋艦隊第2戦艦部隊司令官となって海上に出る。次いで1943年1月からは南太平洋部隊司令官ウィリアム・ハルゼー大将(アナポリス1904年組)の下で司令官代理に任ぜられる。1943年3月には、南太平洋部隊に第3艦隊の呼称が与えられた。第3艦隊指揮下の上陸軍は「第3両用戦部隊」と呼ばれ、ガダルカナル島の戦い以来、ウィルキンソンが情報局長時代から相対していたターナーが前身の部隊から継続して司令官を務めていた。ソロモン諸島の戦いの局面はニュージョージア島の戦いに移ろうとしており、その戦いも全般にわたってターナーが指揮するものと思われていた。しかし、戦いの途中でターナーがソロモン諸島から去り、その後任としてウィルキンソンが就くこととなった。 激闘のソロモン戦線とは打って変わって、1943年中旬ごろまでの中部太平洋方面はあまり大きな戦いもなかったが、この方面を担当する第5艦隊が編成されてエセックス級航空母艦などの新鋭艦も第5艦隊に宛がわれ、有数の大艦隊となっていた。第5艦隊司令長官に就任したレイモンド・スプルーアンス中将(アナポリス1907年組)は、上陸部隊の指揮官の選考に悩んでいた。そこで目をつけたのが、知己であり海軍大学校(英語版)の同僚だったターナーだった。スプルーアンスは無理を承知で太平洋艦隊司令長官チェスター・ニミッツ大将(アナポリス1905年組)にターナーの招聘を要請したところ承認され、また、合衆国艦隊司令長官兼海軍作戦部長アーネスト・キング大将(アナポリス1901年組)とハルゼーの了解も得られたのでターナーは中部太平洋に転じることとなったのである。もっとも、ターナー自身は戦いの行方がある程度見通せるまではニュージョージア島の戦場に留まるつもりだったが、陸軍側の上陸部隊の指揮官更迭問題を抱えていたハルゼーは、ターナーが介入して問題がさらにもつれることを避けるため、期日どおりにターナーを中部太平洋に送り出し、ウィルキンソンに交代させた。 1943年7月15日付で第3両用戦部隊司令官となったウィルキンソンは、すでに策定されたカートホイール作戦の作戦計画を着々と推し進め、8月15日にはベララベラ島南端のビロア地区に約6,000名の部隊を上陸させ、シービーズが飛行場を建設してブーゲンビル島に対する橋頭堡とした。ベララベラ島攻略の功績により、ウィルキンソンは2度目の殊勲章を受章した。次なる目標はブーゲンビル島タロキナ岬であり、近在のトレジャリー諸島も攻略目標に含まれていた。しかし、ここまで相次ぐ日本艦隊の反撃などで艦艇の消耗も激しく、上陸部隊を輸送するウィルキンソンの第3両用戦部隊の手持ち兵力は駆逐艦11隻と輸送船12隻で、第3海兵師団を中心とする34,000名の上陸部隊を輸送しなければならなかった。第3両用戦部隊を間接護衛して支援する兵力もアーロン・S・メリル少将(アナポリス1912年組)率いる第39任務部隊のみとなり、ハルゼーは後詰として空母と巡洋艦、駆逐艦の借用を訴えて承認されたが、すべてがブーゲンビル島の戦いの開始に間に合うわけではなかった。11月1日の朝まだき、ウィルキンソンの第3両用戦部隊はエンプレス・オーガスタ湾に突入し、上陸部隊と物資を無事に陸揚げしたあと、夕方には撤退していった。これを察知した日本海軍は大森仙太郎少将の艦隊で殴り込みを掛けるが、メリルの第39任務部隊に追い返され(ブーゲンビル島沖海戦)、後詰でやってきた栗田健男中将の艦隊は、借用した空母群の空襲により追い返された(ラバウル空襲)。タロキナ岬には無事飛行場が完成し、ブーゲンビル島内の日本軍やラバウルへの圧力となった。ソロモン諸島の戦いにおける飛び石戦法は歴史家サミュエル・E・モリソンに激賞され、戦争終結後の東京裁判前の取調べで、内閣総理大臣も務めた東條英機陸軍大将が、潜水艦の活躍およびアメリカ軍の航空戦力と並んで日本の敗因の一つとして挙げられた。ウィルキンソンは、東條が言うところの「日本の敗因の一つ」を担ったわけである。 ラバウルの包囲網構築は1944年に入っても続き、1944年2月23日にはグリーン諸島の攻略戦を指揮。第5艦隊に代わって第3艦隊が中部太平洋方面で作戦すると、ウィルキンソンはターナーの部隊をそっくり引継ぎ、ペリリューの戦い、アンガウルの戦いおよびウルシー環礁の無血占領を進めた。ペリリューとアンガウルの功績で、ウィルキンソンは殊勲章に代わる金星章を受章した。フィリピンの戦いでは、第3両用戦部隊がトーマス・C・キンケイド中将(アナポリス1908年組)の第7艦隊に貸し出されていたため、ウィルキンソンも第7艦隊の指揮下で行動する。1944年10月1日から1945年1月18日の間、第3両用戦部隊改め第79任務部隊を率いたウィルキンソンは、レイテ島の戦いに始まりリンガエン湾上陸作戦までのフィリピン方面の攻略戦を指揮し続けた。なお、ウィルキンソンは1944年に中将に昇進する。
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