神氏と大祝について
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前述の通り、上社大祝を務めた神(諏訪)氏の由来については意見が分かれており、下社大祝家となった金刺氏の分家とする説や金刺氏とは異なる家系とする説、金刺氏からの養孫でつながる家系とする説がある。 1956年に歴史学者の田中卓が発見した『阿蘇氏略系図』(『異本阿蘇氏系図』とも)と1884年に大祝家に見つかった『神氏系図(大祝家本)』をもとに、金井典美らは神氏を金刺氏の分家とする説を唱え、これは一時期主流説となった。しかし、1990年代後半に入るとこれに対する反論が出て、その上『異本阿蘇氏系図』や『大祝家本神氏系図』を偽書とする見方(と、偽作説に対する反駁)まで出たのである。 寺田鎮子・鷲尾徹太はこの説に対して 国造という政治的支配者の金刺氏が「下社」という一見従属的な位置にあると思われる社壇の大祝となっていること 上社には「神氏と守矢氏の二重体制」という複雑な仕組みがあること 本家であるはずの金刺氏が務めている下社が神階昇進においてしばしば上社の後を追っていること 上社と下社の信仰内容が異なること(上社の祭事はミシャグジ信仰と狩猟を中心とし、下社のは水霊信仰と稲作を中心とする) を指摘して、「こうした要素を無視して、一つの「系図」によって「金刺氏創祀」説を唱えることは、非常に疑問を覚えざるを得ない」という批判の声を上げている。 一方宝賀寿男(2010年)は諏訪氏の出自に対して 科野国造と洲羽国造は多くの混淆・通婚・養猶子があって、女系まで含めると、これら氏族は古代からほとんど同族化していたこと 洲羽国造後裔の倉見君は用明朝に敵人に殺害されて洲羽嫡流の男系が絶えたため、その娘が科野国造麻背君に嫁して生んだ外孫の乙穎(神子、熊子)が幼少にして洲羽氏嫡宗を継いだと考えられること を指摘して、金刺氏の分家ではなく混淆した家系からの養孫とする説を唱えた。 上記の他にも肯定論、否定論が出ており、系図の真偽について未だ学界での定説を見ていない。 金刺氏のほか、神氏は大神氏出自とする説もある。塩尻市柴宮で大神氏に関係する部族がいたと思われる三河・遠江国に見られる三遠式銅鐸の出土があり、天竜川経由での人(大神氏の同族集団か)の移動があったことを示唆する。「祝(ほうり)」という神官の呼称、「ミワ」という氏族名、または蛇信仰の存在等といった大神氏や三輪山(大物主神)信仰との共通点も指摘されている。実際には1865年(元治2年)の『諏訪神社祈祷所再建趣意書』には当時の大祝の諏訪頼武が「諏方大祝大三輪阿曽美頼武」と名乗っていた。 『日本書紀』から持統朝(7世紀後半)には既に諏訪の神が朝廷から篤い崇敬を受けていたことがうかがえるのに対して、前記したように多くの記録が神氏の始祖の有員が9世紀初頭の人物としているという問題がある。本当の初代大祝を用明朝(6世紀末)の神子(乙頴)とする『大祝家本神氏系図』と『異本阿蘇氏系図』の記述を受け入れる説のほか、上社の大祝となる童男は元々特定の一族ではなくダライ・ラマのように上社周辺の氏族から選ばれていたが、平城天皇の時代に上社が下社の金刺氏に倣って世襲制に替わったという大和岩雄の説がある。 今までの研究では、上社大祝を現人神とする信仰は古代からのもので、原始信仰の名残とするのが一般的であった。これに対して、津田勉(2002年)と井原今朝男(2008年)は大祝を権威や権力から超越した現人神とする思想の成立は神祇制度下では不可能と指摘し、むしろ鎌倉時代に出来上がったものとみるべきであると提唱している。 青木隆幸(2012年)は、大祝に関わる伝承やその即位式を中世に発生したものとしている。なお、幼童を大祝に当てるというのは『画詞』成立以前には見られないため(『信重解状』にも初代大祝の年齢が書かれていない)、8歳にして諏訪明神に選ばれた有員を7歳に大祝となり、8歳に復位した諏訪頼継(諏訪時継の子)をモデルにした『画詞』を編纂した諏訪円忠による創作と主張している。また、これと一致している乙頴を「諏訪大神大祝」とする『異本阿蘇氏系図』の記述は後世の付加と推測している。
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