神様、仏様、稲尾様とは? わかりやすく解説

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神様、仏様、稲尾様

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 00:41 UTC 版)

稲尾和久」の記事における「神様、仏様、稲尾様」の解説

1957年当時プロ野球記録となるシーズン20連勝記録するなど35勝を挙げ史上最年少でのリーグMVP選出1958年には33勝で2リーグ制後初の2年連続MVP獲得した読売ジャイアンツ対戦した日本シリーズでは、第1戦を稲尾落とし、第2戦も敗戦平和台球場移動して第3戦、稲尾を再び先発立てるも敗れて3連敗追い込まれた。降雨による順延中一日はさんだ第4戦、三原監督稲尾三度目先発投手起用してシリーズ勝利。第5戦でも稲尾は4回表からリリーフ登板すると、シリーズ史上初となるサヨナラ本塁打を自らのバット放ち勝利投手となった。そして舞台を再び後楽園球場移しての第6・7戦では2日連続での完投勝利で、西鉄逆転日本一成し遂げた稲尾は7試合中6試合登板し第3以降は5連投。うち5試合先発し4完投優勝時の地元新聞には「神様、仏様、稲尾様」の見出し踊った三原はこのシリーズ稲尾登板させ続けたことについて、「この年は3連敗した時点負け覚悟していた。それで誰を投げさせれば選手ファン納得してくれるかを考えると、稲尾かいなかった」と告白した後年病床伏していた三原は、見舞い訪れた稲尾対し自分都合君に4連投強いて申し訳ないものだ」と詫びたが、稲尾は「当時投げられるだけで嬉しかった」と答えている。 1959年30勝を挙げ史上唯一の3年連続30勝を記録した中西豊田大下弘仰木彬と共に3年連続日本一1956年 - 1958年)を達成するなど、「野武士軍団」と呼ばれた西鉄黄金時代中心選手として活躍した。本多猪四郎監督による映画鉄腕投手 稲尾物語」が製作され全国上映されている。日本シリーズには通算4回出場し通算8回出場堀内恒夫並び日本シリーズ最多タイ通算11勝を挙げている。 1961年78試合登板しヴィクトル・スタルヒン並び史上最多タイとなるシーズン42勝(阪急11勝1敗、南海11勝2敗、大毎9勝4敗、近鉄6勝1敗、東映5勝6敗)を記録した。なお、1961年当時、現在では42となっているスタルヒン1939年勝利数40とされていた。スタルヒン記録当初42であったが、当時勝利投手基準曖昧記録員主観判定していた部分があり、戦後スコアブック見直した際に明らかにスタルヒン勝利を記録することが適当でないと思われる2試合があったため修正行っていたのである稲尾41勝を達成した時、マスコミも「新記録達成」と大きく報道し本人チーム優勝争いから脱落していたこともあって勝利数に関しては「もういいだろう」と思っていたという。それでもあと2試合登板したのはシーズン奪三振記録更新目標切り替えていたためである。この間に1勝を上積みし、シーズン42勝とした。しかし、稲尾が「新記録」を樹立したことで改めてこの記録の扱い議論上り、翌1962年3月30日に「あとから見ておかしなものでも当時の記録員の判断に従うべき」という理由で再びスタルヒン記録42勝に変更された。それに伴い稲尾記録新記録からタイ記録へと変更された。結果的にあと1勝を上積みしたことによって稲尾タイ記録名を残すことができたが、稲尾は「それまで記録42勝と知っていれば、何が何でも43勝目狙い行っていただろう」と述懐している。 42勝を挙げたこの年稲尾自身も最高の年だったと語っている。投げている際に、自らの投球フォームスローモーション動画のように脳裏写り瞬時にかつ自由自在にフォームチェックができた。また、制球絶妙で、目の前に升目のようなスポット見え自分中に目標物のような感覚ができ、そこで離せ狙い通りにいったという。極論すると、18メートル先の向こう見ていなかったと語っている。同年開幕2試合目からそれが出てきて楽だったが、翌年からはほとんど見えなくなったという。 1962年8月25日通算200勝を達成25歳86日での達成金田正一に次ぐ年少記録で、プロ入り7年目での達成史上最速であった1963年28勝を挙げて西鉄優勝貢献。しかしマスコミの論調28勝は稲尾してみれば「並の成績」という扱いだった。同年からMVPタイトル日本語名が「最高殊勲選手」から「最優秀選手」に改められ、「優勝チームから選出」という制約外されていた。この結果西鉄優勝し稲尾はその立役者だったにもかかわらずMVP当時プロ野球新記録となる52本塁打記録した南海野村克也選ばれた。 日本シリーズON砲開花した巨人初め敗北喫したものの、一本足打法会得し一気中心打者成長した王貞治(このシリーズでもタイ記録となる4本塁打放ったに関しては、微妙にステップ遅らせるフォーム猛練習することにより11打数1安打とほぼ完璧に抑えている。ただし、王は稲尾については「タイミングをずらすフォームよりも、外角のボールゾーンからストライクゾーン入ってくる絶妙コントロールされスライダー印象強かった」と語っている。 この年まで、プロ入りから8年連続20勝以上を挙げ、「鉄腕」の名をほしいままにした。この8年間の平均登板数は66試合平均投球回数は345イニングである。

※この「神様、仏様、稲尾様」の解説は、「稲尾和久」の解説の一部です。
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