神様、仏様、稲尾様
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1957年に当時のプロ野球記録となるシーズン20連勝を記録するなど35勝を挙げ、史上最年少でのリーグMVPに選出。1958年には33勝で2リーグ制後初の2年連続MVPを獲得した。 読売ジャイアンツと対戦した日本シリーズでは、第1戦を稲尾で落とし、第2戦も敗戦。平和台球場に移動しての第3戦、稲尾を再び先発に立てるも敗れて3連敗と追い込まれた。降雨による順延で中一日をはさんだ第4戦、三原監督は稲尾を三度目の先発投手に起用してシリーズ初勝利。第5戦でも稲尾は4回表からリリーフ登板すると、シリーズ史上初となるサヨナラ本塁打を自らのバットで放ち勝利投手となった。そして舞台を再び後楽園球場に移しての第6・7戦では2日連続での完投勝利で、西鉄が逆転日本一を成し遂げた。稲尾は7試合中6試合に登板し、第3戦以降は5連投。うち5試合に先発し4完投。優勝時の地元新聞には「神様、仏様、稲尾様」の見出しが踊った。三原はこのシリーズで稲尾を登板させ続けたことについて、「この年は3連敗した時点で負けを覚悟していた。それで誰を投げさせれば選手やファンが納得してくれるかを考えると、稲尾しかいなかった」と告白した。後年、病床に伏していた三原は、見舞いに訪れた稲尾に対し「自分の都合で君に4連投を強いて申し訳ないものだ」と詫びたが、稲尾は「当時は投げられるだけで嬉しかった」と答えている。 1959年も30勝を挙げ、史上唯一の3年連続30勝を記録した。中西や豊田、大下弘、仰木彬らと共に、3年連続日本一(1956年 - 1958年)を達成するなど、「野武士軍団」と呼ばれた西鉄黄金時代の中心選手として活躍した。本多猪四郎監督による映画「鉄腕投手 稲尾物語」が製作され、全国上映されている。日本シリーズには通算4回出場し、通算8回出場の堀内恒夫と並び日本シリーズ最多タイの通算11勝を挙げている。 1961年は78試合に登板し、ヴィクトル・スタルヒンに並び史上最多タイとなるシーズン42勝(阪急11勝1敗、南海11勝2敗、大毎9勝4敗、近鉄6勝1敗、東映5勝6敗)を記録した。なお、1961年当時、現在では42勝となっているスタルヒンの1939年の勝利数は40とされていた。スタルヒンの記録は当初42勝であったが、当時は勝利投手の基準が曖昧で記録員の主観で判定していた部分があり、戦後スコアブックを見直した際に明らかにスタルヒンに勝利を記録することが適当でないと思われる2試合があったため修正を行っていたのである。稲尾が41勝を達成した時、マスコミも「新記録達成」と大きく報道し、本人もチームが優勝争いから脱落していたこともあって勝利数に関しては「もういいだろう」と思っていたという。それでもあと2試合登板したのはシーズン奪三振記録の更新に目標を切り替えていたためである。この間に1勝を上積みし、シーズン42勝とした。しかし、稲尾が「新記録」を樹立したことで改めてこの記録の扱いが議論に上り、翌1962年3月30日に「あとから見ておかしなものでも当時の記録員の判断に従うべき」という理由で再びスタルヒンの記録が42勝に変更された。それに伴い稲尾の記録も新記録からタイ記録へと変更された。結果的にあと1勝を上積みしたことによって稲尾はタイ記録に名を残すことができたが、稲尾は「それまでの記録が42勝と知っていれば、何が何でも43勝目を狙いに行っていただろう」と述懐している。 42勝を挙げたこの年は稲尾自身も最高の年だったと語っている。投げている際に、自らの投球フォームがスローモーション動画のように脳裏に写り、瞬時にかつ自由自在にフォームのチェックができた。また、制球も絶妙で、目の前に升目のようなスポットが見え、自分の中に目標物のような感覚ができ、そこで離せば狙い通りにいったという。極論すると、18メートル先の向こうを見ていなかったと語っている。同年は開幕2試合目からそれが出てきて楽だったが、翌年からはほとんど見えなくなったという。 1962年8月25日、通算200勝を達成。25歳86日での達成は金田正一に次ぐ年少記録で、プロ入り7年目での達成は史上最速であった。 1963年も28勝を挙げて西鉄優勝に貢献。しかしマスコミの論調は28勝は稲尾にしてみれば「並の成績」という扱いだった。同年からMVPはタイトルの日本語名が「最高殊勲選手」から「最優秀選手」に改められ、「優勝チームから選出」という制約が外されていた。この結果、西鉄が優勝し稲尾はその立役者だったにもかかわらず、MVPは当時のプロ野球新記録となる52本塁打を記録した南海の野村克也が選ばれた。 日本シリーズはON砲が開花した巨人に初めて敗北を喫したものの、一本足打法を会得して一気に中心打者に成長した王貞治(このシリーズでもタイ記録となる4本塁打を放った)に関しては、微妙にステップを遅らせるフォームを猛練習することにより11打数1安打とほぼ完璧に抑えている。ただし、王は稲尾については「タイミングをずらすフォームよりも、外角のボールゾーンからストライクゾーンに入ってくる絶妙にコントロールされたスライダーが印象強かった」と語っている。 この年まで、プロ入りから8年連続で20勝以上を挙げ、「鉄腕」の名をほしいままにした。この8年間の平均登板数は66試合、平均の投球回数は345イニングである。
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