田中勉 (野球)とは? わかりやすく解説

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田中勉 (野球)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/09/14 08:23 UTC 版)

田中 勉
基本情報
国籍 日本
出身地 福岡県大牟田市
生年月日 (1939-10-10) 1939年10月10日(84歳)
身長
体重
178 cm
75 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
プロ入り 1961年
初出場 1961年8月16日
最終出場 1969年9月4日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

田中 勉(たなか つとむ、1939年10月10日 - )は、福岡県大牟田市[1]出身の元プロ野球選手投手)。

1966年完全試合を達成するなど西鉄ライオンズの主力投手として活躍したが、中日移籍後の1969年以降にいわゆる「黒い霧事件」に関与したとして逮捕され、事実上の永久追放処分となった。

経歴

プロ入り前

1939年10月10日福岡県大牟田市で生まれる。小学2年生の時に野球を始め、中学時代は捕手で4番を打った[1]福岡県立三池工業高等学校在学時に投手へ転向[1]1957年全国高等学校野球選手権福岡大会に出場して準々決勝まで進むが、福岡県立小倉高等学校に敗れて甲子園出場は叶わなかった。

高校卒業後は社会人野球東洋高圧大牟田へ入社し、1960年の都市対抗に出場するが2回戦(初戦)で松下電器に惜敗する。翌1961年の都市対抗でも同じく初戦が2回戦となり、対日本鉱業日立戦に先発登板すると2安打に抑えて完封勝利。準々決勝では富士製鐵広畑のエース大工勝と延長12回を投げ合って引き分け、翌日の再試合でも6回から救援登板するが、先発の大工に完封負けを喫した。

西鉄時代

都市対抗野球での登板を評価され、1961年西鉄ライオンズへ入団する[1]。1年目は未勝利に終わるが、翌1962年には先発ローテーションの一角として6勝を挙げる。1963年には規定投球回に初めて到達して17勝8敗、防御率2.65(リーグ8位)、勝率.680の好成績を残し、最高勝率のタイトルを獲得、チーム5年ぶりのリーグ優勝に貢献した[1]日本シリーズ(対読売ジャイアンツ戦)では4試合に登板し、そのうち第2戦では先発するが1回に広岡達朗の放った打球が右足を直撃して早々に降板する。第4戦にも先発するが3回に制球の乱れから四球を出して先制され、この回限りで降板するなど結果を残せなかった。

その後は、肩を負傷した稲尾和久が中継ぎに配置転換されたことで先発投手陣の柱として活躍し、1966年5月12日の対南海ホークス戦(大阪球場)では史上9人目の完全試合を達成する[2]など、同年は23勝(12敗)を挙げて防御率2.34(リーグ7位)、217奪三振を記録して最多奪三振を獲得するとともに、ベストナインに輝いた。しかし、1967年に入るとこれまで武器としていたシュートの多投から肘を痛め、7月下旬から9月上旬までの約1ヶ月間に渡って戦線を離脱する。それでも復帰後は5勝を挙げ、シーズン全体では12勝、防御率2.17(リーグ4位)の好成績を残した。

シーズン終了後の契約更改において、田中は自身の父親に代理人を依頼する。交渉の場で父親は、息子が肘を負傷している中での監督の中西太の起用法への不満を語り、現在の首脳陣の中では息子を働かせられないと発言する[3]。結局、西鉄は田中の放出を決定し、広野功との交換トレード中日ドラゴンズへ移籍した[1]

中日時代~黒い霧事件

移籍初年度の1968年は11勝を挙げて6年連続二桁勝利を達成する。1969年は8勝を挙げるが、シーズン終盤の同年10月に当時は創刊直後だった「週刊ポスト」(小学館)が暴力団関係者による野球賭博の実態に迫った記事の掲載を始めた[4]。その後、かつて田中と西鉄で同僚だった永易将之が球団上層部から八百長行為の疑惑を抱かれ、球団はシーズン終了後に永易を解雇することを決定したが、同年10月24日の同誌では永易以外に疑わしい人物が6名いると報じ、「ファンを裏切った腐敗分子を蛮勇を振るって告発する」として選手の実名を公表した[5][注釈 1]。その中に「当時、中日ドラゴンズに所属していた投手の田中勉が西鉄球団に八百長を広めたのは衆目の一致するところ」と田中の名前を報じており、それを知った田中は「事実無根」として10月21日弁護士を伴って「週刊ポスト」編集部を訪ねて抗議すると共に謝罪と記事の撤回を求めるが、編集長の荒木博は拒否した[7][8]

週刊ポストの記事によって名前が急浮上した田中は、同年12月に球団上層部からトレード要員にすることを通達された[9]。しかし、19日までに移籍先が見つからなかったために自由契約とする旨を通達され[10]、田中は週刊ポストを相手に名誉棄損罪で東京地方検察庁へ告訴した[11]。その後も一貫して獲得を希望する球団が現れなかったために田中は郷里の福岡市へ戻るが、この頃に八百長事件の黒幕である藤縄洋孝と共に、コーチ兼任選手から西鉄の新監督に就任した稲尾の自宅を訪れて西鉄復帰を打診するが拒否され[12]、事実上現役を引退した[注釈 2]

逮捕

永久追放処分を最初に受けた永易は、八百長疑惑が浮上した直後から福岡市内の自宅アパートを出て行方不明となっていた。その後、恋人と共に恋人の故郷である札幌に滞在していることが判明したが、永易と面識があるライターの大滝譲司が永易本人と接触して「永易の告白」として各紙を賑わせていたところ、4月6日発行の「内外タイムス」の独占スクープで「HさんはI投手にやらせたくて、Iと親しい中日の田中勉さんに頼んで100万円を田中さんに渡したのを知っています」などと田中は実名で、それ以外の選手らはイニシャルで名前を挙げた[14]。さらに永易は4月10日の記者会見で改めて関係者全員の実名を公表し、東京地方検察庁特別捜査部は田中の週刊ポストへの告訴に絡んで八百長の捜査を行っていた。その結果、オートレースの八百長事件で4月22日小型自動車競走法違反容疑で警視庁捜査四課に逮捕された現役レーサーが「大井での八百長レースで現役のプロ野球選手と謎の男2名が現場にいた」と供述した[15]。その結果、翌日に警視庁捜査四課は同じく小型自動車競走法違反で田中と藤縄、さらに高山勲(元大洋ホエールズ投手)を逮捕した[16]

逮捕された田中は、5月6日の取り調べでプロ野球でも八百長を演じていたことを認める供述をした[17]。このため、週刊ポストの記事は田中への名誉棄損には当たらないと判断し、「世間を騒がせて申し訳ない。いまは反省すべき時で告訴どころではない」として告訴を取り下げる手続きを取った[18]。それを受けて東京地検特捜部は「週刊ポスト」を不起訴処分として捜査を打ち切った[19]。逮捕された時点で現役を引退していたためにこれ以上の処分は発表されなかったが、事実上の永久追放とされている。また、田中は西鉄時代に同僚だった池永正明に八百長で得た報酬の100万円を預かるよう依頼し、池永はこれを承諾したものの返済しなかったことで池永も永久追放処分(その後、2005年に復権)となっている[20][21]

その後、田中は釈放されて大衆割烹料理店「魚市」の経営を経て、福岡県大野城市で健康食品(卵油)・土地改良剤などの販売会社を営んだ[2][22]

詳細情報

年度別投手成績





















































W
H
I
P
1961 西鉄 2 1 0 0 0 0 1 -- -- .000 24 5.1 6 0 1 0 0 5 1 0 5 3 5.06 1.31
1962 30 18 4 1 0 6 8 -- -- .429 544 132.1 100 7 62 4 4 109 0 0 50 36 2.44 1.22
1963 51 29 6 4 1 17 8 -- -- .680 860 216.1 177 16 55 2 0 133 3 1 74 64 2.66 1.07
1964 52 26 8 2 1 15 15 -- -- .500 978 232.0 211 19 102 3 4 126 4 0 95 85 3.30 1.35
1965 38 29 11 2 1 11 17 -- -- .393 880 216.0 172 20 84 1 5 194 3 0 85 77 3.21 1.19
1966 56 36 13 4 1 23 12 -- -- .657 1141 296.1 207 20 61 4 7 217 1 0 85 77 2.34 0.90
1967 40 28 9 6 0 12 10 -- -- .545 867 216.0 161 17 74 3 5 136 1 0 56 52 2.17 1.09
1968 中日 35 28 8 2 0 11 12 -- -- .478 758 177.1 162 24 73 2 3 129 2 0 83 67 3.40 1.33
1969 22 20 4 2 0 8 6 -- -- .571 488 118.1 106 24 42 0 5 103 0 0 46 41 3.12 1.25
通算:9年 326 215 63 23 4 103 89 -- -- .536 6540 1610.0 1302 147 554 19 33 1152 15 1 579 502 2.81 1.15
  • 各年度中の太字はリーグ最高

タイトル

  • 最多奪三振:1回 (1966年)※当時連盟表彰なし、パシフィック・リーグでは、1989年より表彰
  • 最高勝率:1回 (1963年)

表彰

記録

初記録
節目の記録
その他の記録

背番号

  • 13 (1961年)
  • 29 (1962年 - 1969年)

脚注

  1. ^ a b c d e f プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、340ページ
  2. ^ a b 7番打者に代打で確信 田中勉 月間2人目の完全試合達成
  3. ^ 西鉄・田中勉が中西監督退任を迫る/週ベ回顧 週刊ベースボールONLINE 2019年7月16日
  4. ^ 週刊ポスト1969年10月17日「阪急・近鉄を狙う野球トバクの魔手 在阪球団の骨までしゃぶりつくすトトカルチョの実態」p40-43
  5. ^ 週刊ポスト1969年10月24日号「永易以外にいる疑わしい8人ファンを裏切った腐敗分子を蛮勇をふるって告発する」p20-23
  6. ^ 関根進『史上最強の編集塾、開講!』太陽企画出版、1995年、p142-143
  7. ^ 報知新聞1969年10月22日3面「八百長は事実無根 田中勉、ポスト誌へ抗議」
  8. ^ サンケイスポーツ1969年10月22日3面「田中勉週刊誌を告訴へ "八百長記事は事実無根"」
  9. ^ 朝日新聞1969年12月16日13面「田中勉、トレードに」朝日新聞縮刷版1969年12月p517
  10. ^ 朝日新聞1969年12月20日13面「中日、田中勉を自由契約に」朝日新聞縮刷版1969年12月p661
  11. ^ 朝日新聞1969年12月20日15面「『週刊ポスト』を名誉棄損で告訴 田中投手」朝日新聞縮刷版1969年12月p663
  12. ^ 『鉄腕一代』244頁。『神様、仏様、稲尾様』206頁
  13. ^ 週刊朝日1970年5月8日号「元エース田中勉の栄光と転落」
  14. ^ 内外タイムス1970年4月7日(6日発行)1面「永易"八百長選手名"明かす 『オレだけではない!』と真相ぶちまける」
  15. ^ 朝日新聞1970年4月22日夕刊11面「プロ野球選手からむ?オートレース八百長事件 不正現場に数名いた 逮捕のレーサー自供」朝日新聞縮刷版1970年4月p731
  16. ^ 朝日新聞1970年4月24日15面「田中勉(元中日)高山(元大洋)を逮捕 八百長オート レーサーをだき込む 藤縄も逮捕 数十万円を渡す」朝日新聞縮刷版1970年4月p783
  17. ^ 日刊スポーツ1970年5月7日1面「田中、八百長認める 43年10月 44年5月 巨人、広島との2試合」
  18. ^ 日本経済新聞1970年5月7日19面「八百長数回やった 田中自供 小川も一役」日本経済新聞縮刷版1970年5月p175
  19. ^ 朝日新聞1970年5月9日夕刊11面「名誉棄損捜査打ち切る 田中勉の週刊誌告訴事件」朝日新聞縮刷版1970年5月p267
  20. ^ 毎日新聞1970年5月8日19面「池永投手に八百長料百万円 東京地検が確認 藤縄に頼まれ田中が渡す」毎日新聞縮刷版1970年5月p215
  21. ^ 日刊スポーツ1970年5月11日1面「池永"球界追放"は必至?きょう注目のパ・リーグ理事会 “黒い百万円”を告白 八百長は否定 明らかに協約違反」
  22. ^ 『プロ野球人名事典』291頁

注釈

  1. ^ 当時、「週刊ポスト」編集部で記事を担当しており、のちに第3代編集長となった関根進によると、週刊ポストは1969年8月に創刊したばかりで目玉記事も少なく、売り上げが低迷していた。この状況を打破するために、当時のプロ野球における著名選手が暴力団関係者と組んで八百長をやっていると噂が立っていたことから格好のネタとして取り上げたものの、「無鉄砲にも噂の段階で八百長選手の実名を挙げて記事にしてしまった」ことを関根が認めている[6]
  2. ^ 中日ドラゴンズはオーナー会議にて「投手難(不足)だが田中を出す。その意味は幅広く解釈すれば分かってもらえると思う」と述べ、田中が“黒い選手”であることを暗示した。その後、田中には2球団が獲得に動き出したものの中日ドラゴンズの裏面工作によって立ち消えになったという[13]

参考文献

  • 『神様、仏様、稲尾様:私の履歴書』日本経済新聞出版社、2002年
  • 『鉄腕一代』スポーツニッポン新聞社、1975年
  • 森岡浩『プロ野球人名事典』日外アソシエーツ、1999年

関連項目

外部リンク




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