発刊の経緯と功績
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/03 01:34 UTC 版)
西日本パイレーツの経営問題で、読売及び巨人軍首脳に煮え湯を呑まされた西日本新聞社首脳は、当時デイリースポーツを売っていたが、他のスポーツ新聞を売るくらいなら、ライオンズを中心に据えた新聞を作って売ればいいんじゃないか、という考えから、試合の主催及び広告、宣伝面でライオンズを支えるため、新しいスポーツ新聞の発行を計画した。当時はテレビも普及していない時代であり、球場で野球を観戦するとも限らなかった。多くの人にとってライオンズの情報は新聞やラジオなど限られた情報手段に頼っていたことから、西日本スポーツの発行で九州全域にファンを増やし、同時に読者を獲得していきたい狙いがあった。 もともと九州は野球ファンの多い広島や四国、名古屋などと違って、どちらかといえば野球に対して冷めた土地柄であった。それは、春夏の甲子園大会に象徴される戦前の中等学校野球大会、戦後の選抜、夏選手権で全国制覇を狙える強いチームが少なかったせいでもあるが、そのため野球ファンの熱気がそのままプロ野球人気になだれ込む構図にはならなかった。ところがそうした土壌の外側から、西日本スポーツはプロ野球人気という熱気を、ライオンズファンの獲得という形で九州に吹き込んでいった。 西鉄ライオンズの投手だった稲尾和久の通称として知られる“神様・仏様・稲尾様”は、当紙の見出しで表記されたのが最初である。
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