野球の歴史における役割の変化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/20 06:12 UTC 版)
「投手」の記事における「野球の歴史における役割の変化」の解説
日本プロ野球草創期では、野球の人体に与える影響が全くの模索段階にあったことと、不人気による人員不足のため、戦前から戦後の混乱期までしばしば無謀な先発連投が強要された。さらに戦時中は、国威発揚の為の非科学的な精神論の横行も先発投手酷使の大きな原因となった。セントラル・リーグとパシフィック・リーグの2リーグ制に移行後、人員不足はある程度解消され、先発投手の登板間隔を2日、3日と長めにとるようになり、間隔日数を表す「中○日」(中2日、中3日など)という言葉が使われるようになった。それでもエースピッチャーが先発・リリーフに連投する姿が見られ、1958年日本シリーズでは稲尾和久(西鉄)が先発とリリーフで7試合中6試合に登板、4連投4連勝する大活躍で「神様、仏様、稲尾様」と称えられた。1961年中日ドラゴンズに入団し、酷使により数年で投手生命を断たれた権藤博の教訓から、「投手分業制」が近藤貞雄によって提唱され、「先発完投」から「先発―抑え」の投手起用へ移行。抑え投手を確立することで先発投手、特にエースの疲労軽減を図った。1980年代以降はこの順番に中継ぎを加えた「先発―中継ぎ―抑え」という継投策が一般化している。先発投手の登板間隔は日本プロ野球では試合日程の都合から中4〜6日が主流。5〜6人の先発投手で先発ローテーションを組み、順番に先発登板する起用法が行われている。
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