野球の発祥地
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/15 23:40 UTC 版)
「ホーボーケン (ニュージャージー州)」の記事における「野球の発祥地」の解説
ホーボーケンが野球の発祥地であるという主張は、1846年にホーボーケンのエリシアン球場(en)でニッカーボッカー・クラブ(en)とニューヨーク・ナインの試合が初めてのクラブ対抗戦として開催されたことを根拠としている。11番街とワシントン・ストリートにある銘板と野球のダイアモンドに擬した舗装道路がこの出来事の記念である。 1845年、アレクサンダー・カートライトが設立したニッカーボッカー・クラブはニューヨークが本拠だったが、マンハッタンに適当なグラウンドが無かったためにエリシアン球場を使い始めた。選手にはセントジョージズ・クリケット・クラブ(en)の選手でもあるハリー・ライトとジョージ・ライトの兄弟、イギリス生まれのジャーナリストで「アメリカの娯楽」(野球を指す)という言葉を創ったヘンリー・チャドウィックが含まれていた。 1850年代までに、マンハッタンに本拠を置くナショナル野球選手協会のメンバーがエリシアン球場を本拠としている一方で、セントジョージズは同じ球場でカナダ、イギリスおよびアメリカの国際試合を開催し続けた。1859年、プロのクリケットチームであるジャック・パーズ・アール・イングランド・イレブンがユナイテッド・ステイツXXIIとホーボーケンで対戦して楽勝した。サム・ライトとその息子達、ハリーとジョージが、負けたユナイテッド・ステイツXXIIの選手であり、この敗北で心ならずも地元の選手達に野球を取り上げるよう奨励することになった。ヘンリー・チャドウィックはアマチュアのアメリカ選手はプロの選手に要求されるような高レベルのクリケット技能を鍛えるだけの時間が無いという結論を引き出し、クリケットではなく、野球がアメリカの娯楽になるべきと考えた。ハリーとジョージの兄弟は、1869年にアーロン・チャンピオンの出資でシンシナティ・レッド・ストッキングスを立ち上げた時に、アメリカでは最初のプロ野球選手となった。 1865年、エリシアン球場でニューヨークのミューチュアル・クラブとブルックリンのアトランティック・クラブの選手権試合が開催されおよそ2万人の観衆を集めた。この光景が印刷屋のカリアー&アイブズのリトグラフ「アメリカの国民的野球試合」(右図)に収められた。 ブルックリンにフェンスで囲まれた野球場が2つできて、興行主は入場料を取ることが可能になり、エリシアン球場の栄光の時代は去った。1868年、マンハッタンの主導的なクラブであるミューチュアルがブルックリンのユニオン・グラウンドに本拠を移した。1880年、ニューヨーク・メトロポリタンズとジャイアンツの創設者達が、ポロ・グラウンズとして知られることになるマンハッタンの野球場を本拠とすることができた。
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