香椎球場とは? わかりやすく解説

香椎球場

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/10/24 20:08 UTC 版)

香椎球場(かしいきゅうじょう)は、福岡県福岡市東区香住ヶ丘にあった野球場。のちに「かしいかえん」の敷地と駐車場の一部になっていた。

概要

1939年博多湾鉄道汽船に香椎チューリップ園(現在のかしいかえん)とともに開場。その後博多湾鉄道汽船は1942年西日本鉄道に合併され、同時に二つの施設は西鉄の所有物となる(西日本鉄道公式には、同年3月15日を開場日としている[1])。

戦後は芋畑として使用されていたが、進駐軍の協力を得て1947年に野球場として再整備された[1]。1948年の国体の際に軟式野球の会場として使われ、西鉄ライオンズの二軍施設となった。また一軍の公式戦も中部日本軍1946年に1試合、南海ホークスが1946年と1949年に1試合ずつ、西鉄クリッパースが1950年に2試合と計5回開催されている。

同施設からは稲尾和久中西太豊田泰光をはじめとする名選手が輩出されたが、稲尾いわく「一軍に比べて(ボールの質、おかずの数などの)待遇がぐんと落ち、二度と(香椎の)合宿所に戻りたくないと思った」(稲尾和久著「神様・仏様・稲尾様」より要約)と言わしめた施設であった。

その後西鉄は太平洋クラブに球団を身売り太平洋クラブ・ライオンズに改称(1977年にクラウンライター・ライオンズに再改称)したものの、球団が福岡を離れる1970年代後半まで、二軍の球場として使用された[1]後、施設は、百道浜(同市早良区)に移され、香椎球場は廃止された。

その後、スタンドの一部がかしいかえんの築堤として利用されていた(草生してはいるが、足元を見ると階段の跡が残っているなど)。

プロ野球公式戦開催実績

前述のように5試合を開催。内訳は1リーグ時代3試合、パ・リーグ2試合。

エピソード

脚注

  1. ^ a b c d e 西鉄ライオンズ・思い出の球場 香椎野球場”. にしてつWebミュージアム. 西日本鉄道. 2018年8月24日閲覧。
  2. ^ a b No.62 フォークの旗手と「照和」物語”. 西日本シティ銀行 (1996年1月). 2018年8月24日閲覧。
  3. ^ a b “日本のリバプール”博多スーパースター列伝<第4回>海援隊(1)”. アサ芸プラス. アサヒ芸能 (2014年1月28日). 2018年8月24日閲覧。




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