略歴及び主な業績とは? わかりやすく解説

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略歴及び主な業績

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/04 03:02 UTC 版)

エドモンド・ハレー」の記事における「略歴及び主な業績」の解説

ハレーロンドンのハッガーストン(en, 旧ミドルセックス州現在のハックニー区ショーディッチの一地区)に裕福な石鹸製造業者の子供として生まれたセント・ポール校で学び1673年オックスフォード大学クイーンズ・カレッジ (en) に入学した在学中太陽系太陽黒点に関する論文発表している。 1676年オックスフォード大学卒業し南半球恒星研究するため南大西洋セントヘレナ島訪れ1678年11月まで観測行ったイギリス戻り1679年に、南半球から見え341個の恒星について詳細に記録した南天星表』(Catalogus Stellarum Australium) を発表する既存星図にこれらの南天恒星追加したハレー業績は、ティコ・ブラーエ観測データに並ぶものとして高く評価された。彼はオックスフォード大学修士号取得し王立協会フェロー推薦された。 ハレー1682年結婚しロンドンの北にあるイズリントン住まい定めた。この時期ハレーはほとんどの時間を月の観測費やしていたが、重力問題にも関心持っていた。彼が関心寄せていた問題一つに、ケプラー惑星運動の法則証明することがあった。1684年8月に彼はケンブリッジ大学アイザック・ニュートン訪ねて議論行なった。その席で彼はニュートンが既にこの問題証明しているがまだ発表していないことを知ったハレーはこの成果発表するようにニュートン説得し、これを受けて自然哲学の数学的諸原理』(プリンキピア)が執筆された。しかし、当初出版確約していた王立協会が、出版する時期になって資金難となった(全く売れなかった書籍費やしてしまったといわれる)ため、やむなくこの本はハレー経費負担して自費出版という形で出版された。 1686年ハレー遠征時代第二成果である貿易風モンスーンに関する論文地図発表した。この論文の中で彼は、太陽熱大気運動の原因であることを指摘した。彼はまた気圧海抜高度の関係を初め明らかにした。 1693年に彼は終身年金に関する論文発表しこの中で住民死亡記録詳細に残していることで知られていたドイツ(現ポーランド)のブレスラウ記録基づいて死亡年齢統計的解析行なった。これによってイギリス政府購入者年齢応じた適切な価格年金サービス供給することができるようになったハレーのこの研究保険数理学の発展に強い影響及ぼしたハレーによるこのブレスラウ生命表作成ジョン・グラント先駆的な研究に続くものだったが、今日では人口統計学歴史における重要な出来事と見なされている。 1690年ハレーは、水中それまでよりも長い時間わたって活動できる器具として潜水鐘考案した。この潜水鐘には水中探索活動行なえるように窓が取り付けられており、空気重り付けた入れて水上から送り届ける仕組みだった。 1698年ハレー英国海軍パラモア号の艦長任命され広範囲地磁気観測行なった。彼は2年をかけてこの任務遂行し大西洋北緯52度から南緯52度までを航海して観測行なったその結果General Chart of the Variation of the Compass1701年)として発表された。これは初め出版され地磁気図であり、現在ではハレーの線 (Halleyan lines) とも呼ばれる等偏角線初め描かれ海図であった1703年11月にはオックスフォード大学サヴィル幾何学教授職指名され1710年には名誉法学博士号を受けた1705年には古天文学の手法を用いて有名なハレー彗星についての予言記した Synopsis Astronomia Cometicae(『彗星天文学概論』) を発表した。これは1682年ハレー自身観測した彗星と、ケプラーなどが観測した過去の大彗星軌道比較行ったのであるハレーはこの著書で、1456年1531年1607年1682年現れ彗星同一天体であり、次は1758年回帰することを予言したハレー自身はこの回帰を待つことなく85歳亡くなったが、予言通り彗星発見され、これによってこの彗星ハレー彗星 (Halley's Comet) と呼ばれることとなったハレー彗星は、惑星以外で太陽系公転する天体初め確認された例でもあった。 1716年には、金星の日面通過の際に観測地点によってその開始終了時刻が異なることを用いると地球太陽の間の距離(天文単位)を高い精度求めることができると提案した金星の日面通過そのもの1639年観測されていたが、その天文学的な重要性ハレーによって初め指摘されたものであった。なお、この現象彼の生存中には起こらず実際に観測が行われたのは1761年および1769年のことであった1718年には恒星位置測定データ古代ギリシャ時代観測記録比較してそれまで不動であると考えられていた恒星固有運動発見した1720年ハレージョン・フラムスティードの跡を継いでグリニッジ天文台長(王室天文官)となり、死ぬまでその職にあった。彼はロンドン南東リーにある聖マーガレット教会葬られている。

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