湊川神社とは? わかりやすく解説

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湊川神社

湊川神社 拝殿湊川神社
みなとがわ

兵庫県神戸市中央区多聞通三丁目鎮座
JR東海道線・山陽線神戸駅より徒歩すぐ)


ご祭神 楠木正成公(大楠公)
 通称 楠公(なんこう)さん。

配祀  楠木正行公(小楠公)
 及び湊川の戦で殉節され楠木正季(まさすえ)卿以下、御一族十六並びに菊池武吉卿。
摂社甘南備神社は、明治三十八年鎮座ですが、祭神大楠公夫人」であり建物戦災消失後は
本殿内に合祀されています。

由緒 1336年([南]延元元年 [北]建武三年)五月二十五日
 後醍醐天皇の勅を奉じて兵庫湊川足利尊氏大軍迎え撃ちましたが勝機なく、弟正季と「七生報国」を誓って刺交殉節を遂げられました。
 水戸藩主徳川光圀は、正成の墓が粗末に扱われているのを嘆き嗚呼忠臣子の墓」と自書した墓碑建立して手厚く葬り全国大楠公盛徳顕彰しました
お神楽見たよ! 訪ねたのは、5月25日楠公祭の日。
去年今頃、湊川神社に行こう思い立ち
今年はようやく参拝することが出来た

 南北朝時代にかけての争乱と、混沌時代生きた武将楠木正成偲んでお神楽奉納太鼓披露された。
 楠木正成
 南北朝時代武将河内土豪幼名多聞丸。
 1331年(元弘一年)後醍醐天皇に応じて兵を挙げわずかな軍勢率いて鎌倉幕府大軍相手さまざまな奇策奇襲行って幕府軍翻弄して苦しめ、正成が河内千早城(現 大阪府南河内郡大字森屋)に幕府軍ひきつけて、ねばり強く孤軍奮闘しているうちに、各地討幕の兵が挙がり1333年5月22日 ついには源頼朝以来140年続いた鎌倉幕府は、滅亡した
 その後建武政権下で河内の守と守護兼ね和泉守護ともなった
 
 1336年5月九州から攻め上って来た、足利軍兵庫湊川迎え討ち激戦の末に戦死する『太平記』によると-(湊川民家入った楠木一族十三人、その家来六十余人客間並んで座り念仏唱えて一斉に腹を切ったという。最期上座に坐っていた正成は、弟 正季に向かって来世では何を願うか」と問うと、正季は「七生まで、ただ同じ人間生まれて朝敵(足利軍)を滅ぼさばやとこそ存じ候へ」と答えた
 それを聞いた正成は、嬉しそうに「罪業深き悪念なれども、われもかやうに思うなり、いざさらば同じく生を替えて(生まれ変わって)この本懐達せん」と約束して兄弟ともに刀を刺し違えて死んだ)とある。五月二十五日のこと。

 楠木正行(まさつら)
 楠木正成長子
 正成が湊川に向かう途中桜井宿(現 大阪府三島郡島本町桜井一丁目)で、正行 に「このたび合戦は、天下安否を占う合戦となろうし、父がそなたの顔を見ることもこれが最後と思うなり、正成が討ち死にすと知れたならば、天下は必ず尊氏が握ると心得よ。されど他人はどうであれ、そなたはしばしの命を助からんがために、我ら多年忠義捨て去って足利降ってはならぬぞよ。一足若党一人でも生き残っているうちは、金剛千早近辺引き籠もり、敵の大軍押し寄せて参ったならば決死覚悟でこれに当たり、武略をもって敵を欺け。また万が一にも禍が主上(天皇)の御身に及ぶようならば、身を犠牲にしてもお守りいたせ。そのことが、亡き父に対す第一孝行となるであろう」と諭した
 
 正行は、父の遺訓守って足利氏対抗十一年後の正平二年八月北朝方の隅田城を攻めこの合戦皮切りに北朝軍と戦い1348年正月足利尊氏執事 高師直(こうのもろなお)の率いる六大軍四条畷到着。これに対して正行は、わずか三千騎で決戦挑み死に物狂い激戦の末、力尽き、弟正時刺し違えて自刃した。
 現在、飯盛山山麓四条畷神社(同市南二丁目)があり、正行主神正時正家一族
二十四人祀る

 楠木正成の「大楠公」という敬称に対して長子正行は「小楠公」と呼ばれる




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