海賊時代の終わり
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/10 06:19 UTC 版)
「カリブ海の海賊 (歴史)」の記事における「海賊時代の終わり」の解説
カリブ海海賊の衰退は、ヨーロッパにおける傭兵利用の衰退と常備軍の隆盛の時期に重なった。三十年戦争の終戦後、ヨーロッパでは国の武力が拡大した。陸軍は体系化され直接国の指揮下に入った。西ヨーロッパ諸国の海軍が拡張され、その任務は海賊との戦いにまで広げられた。ヨーロッパ海域から海賊を駆逐すると、18世紀にはカリブ海に、1710年までに西アフリカと北アメリカにまで及び、1720年代にはインド洋でも海賊が働くには難しい場所になった。 1720年以後、ヨーロッパの軍隊や海軍、特にイギリス海軍が長期の実経験を積むために、海賊に対抗して広い範囲で活動したので、カリブ海では古典的な意味での海賊はごく希になった。イギリス海軍には1718年までに124隻、1815年には214隻の艦船があった。1670年に所有していたのは2隻のみだったので、大きな増加だった。イギリス海軍艦船は飽くことなく海賊船を追求し、戦闘になれば常に勝利した。特にイギリス軍に捕まった海賊は裁判に掛けられて有罪を宣告され、その後にイングランドに移送された。捕獲された海賊が移送される前に、証人の証言やその他固い証拠によって有罪とされる必要があった。旧来、海賊行為の裁判は本国で行う必要があったがこれは時間が掛かり、費用も掛かる手続きだったので、それを早めるために植民地役人と海軍の士官の中から7人委員会が創設されて、海賊に関わる事件を扱った。この新しく速い裁判では海賊のための陳述は無かった。最終的にこの時代で600人の海賊が処刑されており、当時カリブ海で活動した海賊の約10%に相当した。1713年にスペイン継承戦争が終わってから1720年頃まで、海賊行為が一時的に復活したときがあった。戦後は水兵が余ったので、賃金や労働条件が下がった状態に合わせるために、多くの失業した水兵が海賊になった。同時にスペイン継承戦争を終わらせたユトレヒト条約の条件として、戦争に貢献したイギリスの王立アフリカ会社や奴隷商人に、スペイン領植民地にアフリカ人奴隷を供給する契約を与え、イギリス商人や密貿易者には伝統的に閉鎖されたアメリカのスペインの市場に侵入する可能性を与えた。これが全地域の経済再活性化に繋がった。この復活したカリブ海貿易によって、海賊の波に対する豊かで新しい分け前を供給した。さらにこの時期にカリブ海の海賊増加に貢献したのは、メキシコのカンペチェでイギリスのログウッド開拓地をスペインが破壊したことと、1715年にバハマ南沖で銀を運ぶ船隊が沈んだことだった。 18世紀初期に海賊が再興した時期は、イギリス海軍とスペインの沿岸警備隊が拡大されて脅威に対応できるようになった時に終わった。この時代を終わらせることになったもう1つの重要要因は、海賊最後の逃避港だったナッソーが失われたことだった。ウォルト・ディズニーの映画『パイレーツ・オブ・カリビアン』の時代設定がこの時代である。 18世紀初期の有名な海賊は、黄金時代の完全に違法な生き残りであり、その選択肢は直ぐに引退するか、捕まえられることに限られていた。それ以前のヘンリー・モーガンがその私掠行為でイギリス王室からナイトに除せられ、ジャマイカの副総督に指名されたことと比べれば対照的である。 19世紀初期、北アメリカの東海岸とメキシコ湾岸およびカリブ海の海賊行為が再び増加した。ジャン・ラフィットがおそらくこの時代最大の海賊であり、1810年代にテキサス州とルイジアナ州にあった隠れ家からカリブ海とアメリカの海域で活動した。しかしアメリカ海軍の記録では、1820年から1835年の間にアメリカとカリブ海の海域で数百回の海賊による攻撃が起こったことを示している。ラテンアメリカの独立戦争で、スペインによっても、メキシコ、コロンビアなどラテンアメリカで新たに独立した国の革命政府によっても、私掠船の利用が広まった。これら私掠船は独立戦争の間にあっても、その私掠免許状の条件に固執することに慎重になるのは希だった。これら紛争が終わった後も長い間まさに海賊としてカリブ海を荒らし続けた。 1846年の米墨戦争の頃、アメリカ海軍が強力になり、艦船数も多くなって西インド諸島での海賊の脅威を排除するのに十分な勢力になった(西インド諸島海賊掃討作戦)。1830年代までに艦船は蒸気力駆動に転換されたので、カリブ海における帆船時代と古典的な海賊の概念は終わった。海賊と同様、私掠船も戦争の手段として数十年間続き、アメリカの南北戦争の海軍作戦では幾らかの役割を果たした。 私掠船は、ヨーロッパ諸国および新生アメリカ合衆国でも道具として残り、19世紀半ばのパリ宣言まで続いた。しかし私掠免許状が発行されることが非常に希になり、紛争が終わったときは直ぐに停止された。「線を越えた平和は無い」という概念は18世紀後期から19世紀初期の開拓が進んだ時代には意味を持たない遺物だった。
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