民事訴訟法の起草とは? わかりやすく解説

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民事訴訟法の起草

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/16 20:18 UTC 版)

ヘルマン・テッヒョー」の記事における「民事訴訟法の起草」の解説

現在の民事訴訟制度1890年成立公布された旧々民事訴訟法明治23年法律29号)に直接由来するそれ以前にも、我が国固有の民事訴訟制度存在していたが、明治政府は、近代国家としての法整備第一義として、当時最新法典であったドイツ民事訴訟法典(1877年)を翻訳的に継受したのである1884年3月司法省太政官に、「訴訟規則制定せられんこと」を上申した同年4月18日参議宮内卿伊藤博文が、すでに来日中のヘルマン・テッヒョーに対して司法省起案中の民事訴訟法案(立案120条)について意見述べるよう求めた同年同月20日、テッヒョーは伊藤宛に最初の手紙送りこの中ですでに計30か条を起草していた。当時いわゆるナポレオン諸法典一つであるフランス民事訴訟法は、アンシャン・レジームルイ14世時代民事王令(1667年)の、いわば焼き直し見做されており、評判極めて悪かった。テッヒョーは、山田顕義司法卿依頼受けた伊藤博文指令に基づき制度取調御用掛の山脇玄通訳同伊東巳代治の筆記により、1884年4月23日28日5月8日3日間にわたって鹿鳴館で、司法卿及び全国各地裁判官たち計80数名に対して、「プロイセン司法制度大綱」について講演行った1884年6月5日までには176か条が起草された。司法省は、同年7月末、南部甕男栗塚省吾中村元嘉、宮城浩蔵訴訟規則取調委員任命した同年8月深野達が事務局付となり、同年10月玉乃世履菊池武夫[要曖昧さ回避]、岡村輝彦が、1885年3月小松済治が、同年9月には今村信行本多康直取調委員任命された。他方司法省は、1884年8月頃大審院を除く、各治安裁判所、始審裁判所控訴裁判所あてにアンケート行い、「現行民事訴訟手続」を取りまとめた。 1885年2月、テッヒョーは『第一次草案』を脱稿し続いて同年8月に『第二次草案』を司法卿山田顕義提出したこの間帰国した三好退蔵司法少輔地位与えられあわせて制度取調御用兼務となり訴訟法取調委員会三好委員会)の委員長命じられ、テッヒョー第二次草案再審議を行った委員会審議結果中間案として『委員修正民事訴訟規則』として発表された。『委員修正民事訴訟規則に対して、テッヒョーは、『哲憑氏訴訟規則主意書』という意見書提出した1886年6月、テッヒョーは、司法大臣山田顕義に対して、『訴訟草案(Entwurf einer Zivilprozessordnung für Japan)』を提出した。しかし彼の草案あくまでも草案とどまり法律となるまでにはなお3年半ばかりの歳月要し内容的に大幅な変更こうむるに至る。 1886年8月法律取調委員会設置された。同年8月裁判官シュルツェンシュタイン(Max Schultzenstein)がドイツ駐在公使品川弥二郎との間に、契約交わし、『日本民事訴訟法草案に関する意見』と『日本民事訴訟法草案翻訳)』と題するテッヒョー草案対する2編の意見書提出した。さらに弁護士ヴィルモウスキ(Gustav Karl Adolf von Wilmowski)は、ドイツ来ていた松岡康毅依頼されてテッヒョー草案対す意見書送った1887年10月21日山田顕義司法大臣法律取調委員会委員長任命され委員会中に民法組合商法組合訴訟法組合設けられ三好退蔵訴訟法組合会となった1887年11月法律取調委員会は、裁判所構成法審議開始し12月はじめから民法商法民事訴訟法審議開始した外国委員アルバート・モッセ起草途中でやめたため、訴訟法組合は、テッヒョー案とドイツ法(CPO)に基づきつつ、テッヒョー草案には欠けていた婚姻事件禁治産事件公示催告手続仲裁手続審議対象取り込んでいった。 1888年9月法律取調委員会は、民事訴訟法案の再調査開始した同年11月訴訟法組合長三好退蔵から松岡康毅交代した民事訴訟における検事立会い民事執行における優先主義平等主義論点審議して1889年4月10日民事訴訟法案は、山田顕義委員長により内閣総理大臣黒田清隆提出された。山田顕義司法大臣法律取調委員長は、1890年11月29日予定されていた帝国議会開会前民事訴訟法公布目指した。当時ある法案が成法となるためには、法制局元老院枢密院と、3つの機関審議を受ける必要があった。当時法制局長官井上毅であった法制局実質審議省略された。1889年4月29日民事訴訟法案は元老院審議付された。法律取調委員会は、元老院修正要求応じ新草案を内閣総理大臣三条実美経て元老院提出して1889年12月9日元老院はこの案を議定した1890年3月14日民事訴訟法案は、枢密院の大体議に付された。同年同月25日天皇臨御得て民事訴訟法案は枢密院への諮詢終えた同年同月26日内閣閣議開いて上諭案を上奏、翌27日民事訴訟法案は、天皇裁可得た1890年4月21日、旧々民事訴訟法明治民事訴訟法)が公布され元老院による検視終え、翌1891年1月1日から施行された。

※この「民事訴訟法の起草」の解説は、「ヘルマン・テッヒョー」の解説の一部です。
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