氏康存命中とは? わかりやすく解説

氏康存命中

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/11 03:45 UTC 版)

北条氏政」の記事における「氏康存命中」の解説

家督相続後、氏政が最初に行なった仕事北条家所領役帳作成代替わり検地)とされている。民意重視し検地徳政を行うための内政事情によって代替わりすることが北条氏常套であった永禄4年1561年)、上杉謙信関東・南陸奥諸大名糾合した大軍小田原城包囲する小田原城の戦い)。北条氏窮地陥ったが、盟友武田信玄支援もあり、氏政は父主導のもとで籠城戦対抗し上杉軍撃退する越後国撤退した謙信第4次川中島の戦い信玄戦って甚大な被害を受けると、信玄呼応して北関東方面侵攻一進一退の攻防繰り返しつつ、上杉方に奪われ領土徐々に奪い返していく。 永禄7年1564年)の第2次国府台合戦では、初戦こそ里見義弘前に苦戦したが、氏政は北条綱成と共に里見軍の背後攻撃して勝利を得た。これによって上総国勢力拡大した上、上総土気城主・酒井胤治らが一時的ながら氏政に帰順している。同年には武蔵岩槻城主・太田資正長男・氏資を調略して資正を武蔵国から追い武蔵国大半支配権確立した。これに対し謙信武蔵羽生城などを拠点として対抗する永禄9年1566年)、謙信盟主としていた上野国由良成繁が氏政に帰順した。これに連動して佐野昌綱北条高広らも氏政に帰順し上野国にも勢力拡大する。更に氏政の従兄弟下総国古河公方足利義氏重臣簗田晴助一時的に氏政に和したため、謙信同盟している常陸国佐竹義重との直接対立顕在化する。佐竹氏協調する里見氏佐竹氏客将となった太田資正などと臨戦状況となる。 永禄10年1567年)、里見義堯義弘父子上総奪還目指し侵攻する。氏政はこれを撃退しようと上総東部の低山である三舟山君津市)に着陣し、水軍もこの砦と向かい合う佐貫城を窺った。しかし、旧里配下国人侵攻軍に内通三崎水軍侵攻遅滞し状況で、義堯敗退上総国支配権失った三船山合戦)。 この頃駿河国今川氏永禄3年1560年)の桶狭間の戦い当主義元討死して以降領国動揺招いており、武田今川間の関係も悪化していた。永禄11年1568年12月に甲駿関係は手切となり、信玄による駿河今川領国への侵攻開始され駿河侵攻)、義元嫡男であり氏政の従兄弟かつ義弟でもある今川氏真(氏政の妹・早川殿の夫)は没落した信玄北条氏へも今川領国割譲もちかけていたが北条氏は駿相同盟を優先して真方加担し甲相同盟破綻する。氏政は出陣し薩埵峠まで進出して武田軍対抗し、一旦は信玄勢力追放して駿河一部勢力圏収めた。 更に掛川城籠城していた氏真を救出するため、武田方から離反した三河国徳川家康和議を結び、氏政は氏真を保護した。そして自分次男である氏直を氏真の猶子として、駿河領有正当化図ったまた、信玄対抗するために宿敵であった上杉謙信に弟の三郎(後の上景虎)を養子人質)として差し出し上野国支配領域割譲し同盟結んでいる(越相同盟)。この信玄との関係悪化によって愛妻黄梅院離縁するという悲劇味わっている。なお、近年になって離縁史料誤読に基づく事実誤認であるとする異論出されているが、黄梅院永禄12年1569年6月死去した事実確認できるため、その場合でも愛妻突然の死という悲劇目の当たりにしたことになる。 永禄12年1569年9月碓氷峠から侵攻した信玄小仏峠別働隊併せて小田原城攻撃するが、氏政は父と共に籠城して武田軍撃退している。この後北条氏甲斐国引き上げ武田軍挟み撃ち試みる。父の替わり本隊率いた氏政は、武田軍追って弟の北条氏照・氏邦等が布陣し津久井三増峠(現愛川町)より数里南方荻野(現厚木市)まで進軍。この事態対し武田軍は、進軍早めるために小荷駄捨ててまで迅速に帰国目指していた。それに比べて追撃遅延した氏政の到着を待つことなく三増峠の氏照・氏邦隊は攻撃開始したため挟撃にならなかった他、津久井城内藤氏指揮下の予備戦力の津久井衆が武田側加藤丹後によって押さえられ出陣できなかった。武田軍北条綱成指揮する鉄砲隊銃撃により殿軍浅利信種浦野重秀が討ち死などの損害をだしたものの、終わってみれば武田軍敗北し甲斐へ帰国許してしまうこととなった三増峠の戦い)。 その後信玄伊豆駿河方面進出するとこれに対抗するが、蒲原城深沢城等の駿河諸城陥落し後見役であった父が病気がちになり戦線後退元亀元年1570年)には駿河国北条支配地域興国寺城及び駿東南部一帯だけとなり、事実上駿河国信玄によって併合された。 元亀2年1571年10月に父が病没すると、氏政は12月信玄との同盟復活甲相同盟)、同時に謙信との越相同盟破棄した。この同盟条件調整不足等より、結果的に武田対策として十分な成果得られていない旨の不満があった。元々両氏戦略観の隔たりがあった上、謙信越中国平定方に力を注ぐようになっていた。 元亀3年1572年)の信玄三河織田領国への侵攻西上作戦)の際には、諸足軽衆の大藤秀信初代政信)や伊豆筆頭怪力持ち主とされる清水太郎左衛門など2,000余を援軍として武田軍参加させ、三方ヶ原の戦いでは織田徳川連合軍勝利している。ただし、この戦いで大藤秀信戦死している。

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