氏康存命中
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家督相続後、氏政が最初に行なった仕事が北条家所領役帳の作成(代替わりの検地)とされている。民意を重視し、検地や徳政を行うための内政事情によって代替わりすることが北条氏の常套であった。 永禄4年(1561年)、上杉謙信が関東・南陸奥の諸大名を糾合した大軍で小田原城を包囲する(小田原城の戦い)。北条氏は窮地に陥ったが、盟友・武田信玄の支援もあり、氏政は父主導のもとで籠城戦で対抗し、上杉軍を撃退する。越後国に撤退した謙信が第4次川中島の戦いで信玄と戦って甚大な被害を受けると、信玄と呼応して北関東方面に侵攻。一進一退の攻防を繰り返しつつ、上杉方に奪われた領土を徐々に奪い返していく。 永禄7年(1564年)の第2次国府台合戦では、初戦こそ里見義弘の前に苦戦したが、氏政は北条綱成と共に里見軍の背後を攻撃して勝利を得た。これによって上総国に勢力を拡大した上、上総土気城主・酒井胤治らが一時的ながら氏政に帰順している。同年には武蔵岩槻城主・太田資正の長男・氏資を調略して資正を武蔵国から追い、武蔵国の大半の支配権を確立した。これに対し謙信は武蔵羽生城などを拠点として対抗する。 永禄9年(1566年)、謙信を盟主としていた上野国の由良成繁が氏政に帰順した。これに連動して佐野昌綱・北条高広らも氏政に帰順し、上野国にも勢力を拡大する。更に氏政の従兄弟で下総国の古河公方・足利義氏の重臣・簗田晴助も一時的に氏政に和したため、謙信と同盟している常陸国の佐竹義重との直接対立が顕在化する。佐竹氏に協調する里見氏、佐竹氏の客将となった太田資正などと臨戦状況となる。 永禄10年(1567年)、里見義堯・義弘父子が上総奪還を目指して侵攻する。氏政はこれを撃退しようと上総東部の低山である三舟山(君津市)に着陣し、水軍もこの砦と向かい合う佐貫城を窺った。しかし、旧里見配下の国人が侵攻軍に内通、三崎水軍の侵攻も遅滞した状況で、義堯に敗退。上総国の支配権を失った(三船山合戦)。 この頃、駿河国の今川氏は永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いで当主・義元が討死して以降領国の動揺を招いており、武田・今川間の関係も悪化していた。永禄11年(1568年)12月に甲駿関係は手切となり、信玄による駿河今川領国への侵攻が開始され(駿河侵攻)、義元の嫡男であり氏政の従兄弟かつ義弟でもある今川氏真(氏政の妹・早川殿の夫)は没落した。信玄は北条氏へも今川領国の割譲をもちかけていたが北条氏は駿相同盟を優先して氏真方に加担し、甲相同盟も破綻する。氏政は出陣し薩埵峠まで進出して武田軍に対抗し、一旦は信玄の勢力を追放して駿河の一部を勢力圏に収めた。 更に掛川城に籠城していた氏真を救出するため、武田方から離反した三河国の徳川家康と和議を結び、氏政は氏真を保護した。そして自分の次男である氏直を氏真の猶子として、駿河領有の正当化を図った。また、信玄に対抗するために宿敵であった上杉謙信に弟の三郎(後の上杉景虎)を養子(人質)として差し出し、上野国の支配領域を割譲して同盟を結んでいる(越相同盟)。この信玄との関係悪化によって愛妻・黄梅院と離縁するという悲劇を味わっている。なお、近年になって離縁は史料の誤読に基づく事実誤認であるとする異論も出されているが、黄梅院が永禄12年(1569年)6月に死去した事実は確認できるため、その場合でも愛妻の突然の死という悲劇を目の当たりにしたことになる。 永禄12年(1569年)9月、碓氷峠から侵攻した信玄は小仏峠の別働隊を併せて小田原城を攻撃するが、氏政は父と共に籠城して武田軍を撃退している。この後、北条氏は甲斐国へ引き上げる武田軍の挟み撃ちを試みる。父の替わりに本隊を率いた氏政は、武田軍を追って弟の北条氏照・氏邦等が布陣した津久井領三増峠(現愛川町)より数里南方の荻野(現厚木市)まで進軍。この事態に対し武田軍は、進軍を早めるために小荷駄を捨ててまで迅速に帰国を目指していた。それに比べて追撃が遅延した氏政の到着を待つことなく、三増峠の氏照・氏邦隊は攻撃を開始したため挟撃にならなかった他、津久井城の内藤氏指揮下の予備戦力の津久井衆が武田側の加藤丹後によって押さえられて出陣できなかった。武田軍も北条綱成が指揮する鉄砲隊の銃撃により殿軍の浅利信種や浦野重秀が討ち死などの損害をだしたものの、終わってみれば武田軍に敗北し、甲斐への帰国を許してしまうこととなった(三増峠の戦い)。 その後も信玄が伊豆・駿河方面に進出するとこれに対抗するが、蒲原城、深沢城等の駿河諸城が陥落し、後見役であった父が病気がちになり戦線を後退。元亀元年(1570年)には駿河国の北条方支配地域は興国寺城及び駿東南部一帯だけとなり、事実上駿河国は信玄によって併合された。 元亀2年(1571年)10月に父が病没すると、氏政は12月に信玄との同盟を復活(甲相同盟)、同時に謙信との越相同盟を破棄した。この同盟は条件の調整不足等より、結果的に対武田対策として十分な成果を得られていない旨の不満があった。元々両氏の戦略観の隔たりがあった上、謙信も越中国の平定の方に力を注ぐようになっていた。 元亀3年(1572年)の信玄の三河・織田領国への侵攻(西上作戦)の際には、諸足軽衆の大藤秀信(初代政信)や伊豆衆筆頭で怪力の持ち主とされる清水太郎左衛門など2,000余を援軍として武田軍に参加させ、三方ヶ原の戦いでは織田・徳川連合軍に勝利している。ただし、この戦いで大藤秀信が戦死している。
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