氏族の沿革とは? わかりやすく解説

氏族の沿革

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/30 08:15 UTC 版)

泗川睦氏」の記事における「氏族の沿革」の解説

泗川睦氏始祖孝基高麗高宗の時、郎将同正を務めた。 睦孝基息子徳昌閤門祗侯を務めると同時に西北方面反乱平定しながら霊州城(今の平安北道義州)で殉節して死後には霊州君に封ぜられた。睦徳昌息子睦俊平は朝奉大夫として秘書尹を務め、宝文閣直提学に至った。 睦孝基の6世孫睦仁吉が恭愍王の時、兵部尚書僉議評理を務め親元派と紅巾族の乱を平定した功で一等功臣となって1377年(禑王3年)、門下賛成事に昇った。睦仁吉の従弟睦忠睦子安も密直副使歴任しながら撃退する功を立てた。 7世孫睦進恭朝鮮太宗朝に右副代言京畿道観察使などを務め世宗朝に戸曹参判に昇った。 泗川睦氏朝鮮朝文科及第34名など科挙及第者132名を輩出した 11世孫睦世秤の息子睦詹が宣祖の時、吏曹参判・都承旨を歴任して、睦詹の息子の3兄弟文科及第しつつ、栄達した。長男の睦敍欽は礼曹参判を以て孝宗朝に中枢府同知事に至り次男睦長欽は仁祖反正後、戸曹参判・都承旨を務め一方末子睦大欽は礼曹参議を以て江原府使として善政施した。 睦敍欽の息子、睦来善が粛宗朝で南人重鎮であって1689年右議政至り己巳換局西人除去して左議政に昇った。 睦来善の息子行善大司成・大司諫・承旨・礼曹参議黄海道觀察使などを務め、睦行善息子睦昌明は粛宗朝に大司を以て刑曹判書と兵曹判書に至った。 睦敍欽の曾孫天成戸曹参議・左副承旨・刑曹参議などを務め、睦天成曾孫中は純祖朝に大司であって天主教迫害主導しつつ、刑曹判書に至った高麗朝と朝鮮朝全盛期享受した泗川睦氏は、甲戌換局絶頂として南人没落と共に勢力弱体化され、睦虎竜辛壬士禍告発となったことを以て名誉が多少つけられたが、睦詹・睦敍欽・睦来善が耆老所に行き朝鮮500年の間、続けて3代渡って耆老所に名を登らせた家門泗川睦氏唯一である。耆老所は必ず文科及第経て正二品上の位を務め、寿が70歳以上元老老いた君主だけが入ることのできる国家最高の礼遇機関である。 日帝弾圧抵抗した独立運動家としては睦子商・睦致淑・睦俊相らがいる。

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