東京大学創立から関東大震災前まで
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「東京大学総合図書館」の記事における「東京大学創立から関東大震災前まで」の解説
現在の総合図書館の淵源となった存在として、幕府が開設した蕃書調所がある。同所では書物を保存するだけではなく、目録の作成や教科書に当たる書物の貸出など、当時からある種の図書館活動が行っていた。蕃書調所はのちに改称されて開成所となり、明治新政府の下で大学南校として改組される。大学南校規則には、書籍の貸出、払下げは書籍局に申し出るべきこととする条がある。また、大学南校と共に開設された大学東校の規則にも、書籍の目録作成や貸出などを行う典籍局という部局が記述されている。 大学南校は、まもなく東京開成学校に改組される。明治8年の『東京開成学校一覧』では、「講習必用ノ書籍」の貸出や、蔵書点検、縦覧室の設置などが述べられている。翌年の『東京開成学校一覧』では、新たに「圖書室」の章が設けられ、縦覧室は閲覧室に名前が改められている。当時の蔵書は34,778冊で、うち6,798冊が国書で、残りは漢書、洋書となっていた。またこの時期、校長補浜尾新の要請によって、構内には東京書籍館の分館として法律書庫が設けられた。東京書籍館は明治10年に廃止され、分館である法律書庫も一般利用を停止したが、生徒の閲覧は継続された。 1877年(明治10年)4月12日、東京開成学校と東京医学校(大学東校が改組したもの)が統合して東京大学(旧)が発足し、東京開成学校は東京大学の法・理・文3学部となる。10月には神田一ツ橋の校地内にあった教師館を利用し、書庫3棟を加えて新たな図書館が設けられた。閲覧室は法学部、理・文学部、予備門に分けられていて、学生は所属に従って閲覧室および敷設された書庫を利用した。医学部はすでに本郷にあり、本館の2階に書籍室を設けていた。 神田一ツ橋にあった法理文3学部が本郷に移転したのは、1884年(明治17年)8月のことである。この際、図書館は本郷に新築された法文学部の建物の2階に入った。1886年(明治19年)3月1日に公布された帝国大学令によって、東京大学(旧)は帝国大学となったが、同年10月14日には新しい「帝国大学図書館規則」が制定された。この規則では、従来法理文3学部と医学部で分けられていた図書館が形式上統合され、全学部の図書が帝国大学図書館に貯蔵することが定められたが、実際には各部局に備え付けられる状態に変わりはなかった。1918年(大正7年)の「東京帝国大学附属図書館規則」の改正は、実情を反映したものとなり、図書館の図書は「本館備付ノ図書」と「教室研究室其他ノ部局ニ備付ノ図書」の2種に区分されることとなった。 法理文3学部の本郷移転直後は図書館が他の建物内に入居していたが、1890年(明治23年)には新たな図書館の工事が開始された。1892年(明治25年)に竣工し、翌年の7月5日に移転を完了した。この新図書館は学生閲覧室、職員閲覧室、事務室、喫煙室、3層の書庫などを備え、学生閲覧室は300人を収容した。夏目漱石の三四郎に描写された図書館は、この当時の建物である。 その翌日から三四郎は四十時間の講義をほとんど半分に減らしてしまった。そうして図書館にはいった。広く、長く、天井が高く、左右に窓のたくさんある建物であった。書庫は入口しか見えない。こっちの正面からのぞくと奥には、書物がいくらでも備えつけてあるように思われる。立って見ていると、書庫の中から、厚い本を二、三冊かかえて、出口へ来て左へ折れて行く者がある。職員閲覧室へ行く人である。なかには必要の本を書棚からとりおろして、胸いっぱいにひろげて、立ちながら調べている人もある。三四郎はうらやましくなった。奥まで行って二階へ上がって、それから三階へ上がって、本郷より高い所で、生きたものを近づけずに、紙のにおいをかぎながら、――読んでみたい。けれども何を読むかにいたっては、べつにはっきりした考えがない。読んでみなければわからないが、何かあの奥にたくさんありそうに思う。 — 夏目漱石、『三四郎』 @media all and (max-width:720px){.mw-parser-output .mod-gallery{width:100%!important}}.mw-parser-output .mod-gallery{display:table}.mw-parser-output .mod-gallery-default{background:transparent;margin-top:.3em}.mw-parser-output .mod-gallery-center{margin-left:auto;margin-right:auto}.mw-parser-output .mod-gallery-left{float:left;margin-right:1em}.mw-parser-output .mod-gallery-right{float:right}.mw-parser-output .mod-gallery-none{float:none}.mw-parser-output .mod-gallery-collapsible{width:100%}.mw-parser-output .mod-gallery .title,.mw-parser-output .mod-gallery .main,.mw-parser-output .mod-gallery .footer{display:table-row}.mw-parser-output .mod-gallery .title>div{display:table-cell;text-align:center;font-weight:bold}.mw-parser-output .mod-gallery .main>div{display:table-cell}.mw-parser-output .mod-gallery .gallery{line-height:1.35em}.mw-parser-output .mod-gallery .footer>div{display:table-cell;text-align:right;font-size:80%;line-height:1em}.mw-parser-output .mod-gallery .title>div *,.mw-parser-output .mod-gallery .footer>div *{overflow:visible}.mw-parser-output .mod-gallery .gallerybox img{background:none!important}.mw-parser-output .mod-gallery .bordered-images .thumb img{outline:solid #eaecf0 1px;border:none}.mw-parser-output .mod-gallery .whitebg .thumb{background:#fff!important} 東京帝大図書館外観(1900年) 学生閲覧室(1900年) 書庫は完成した数年後に早くも逼迫するようになり、1907年(明治40年)度末に増築が行われた。1909年(明治42年)度には事務室や閲覧室等が改築された。これらの工事を経て図書館は十字型の建物となり、東側が書庫、西側が閲覧室、南側が事務室等、北側が玄関、新聞室、法律書庫、閲覧室等となった。 この建物については創建当初の資料が十分に残されていない。しかし、後述する別館の設置工事に伴う図書館前広場の整備工事中、旧図書館の基礎が出土し、解体する作業を行っていた際に基礎に埋め込まれた金属製の箱が発見された。箱の中からは金属プレートが見つかり、その刻印から、工事監理者が山口半六(文部技師)、設計者が久留正道(文部技師、1881年東京帝国大学卒業)であったことが明らかになった。
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