東京大学創立から関東大震災前までとは? わかりやすく解説

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東京大学創立から関東大震災前まで

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/10 01:08 UTC 版)

東京大学総合図書館」の記事における「東京大学創立から関東大震災前まで」の解説

現在の総合図書館淵源となった存在として、幕府開設した蕃書調所がある。同所では書物保存するだけではなく目録の作成教科書に当たる書物貸出など、当時からある種図書館活動が行っていた。蕃書調所はのちに改称され開成所となり、明治新政府の下で大学南校として改組される。大学南校規則には、書籍貸出払下げ書籍局に申し出るべきこととする条がある。また、大学南校と共に開設され大学東校規則にも、書籍目録作成貸出などを行う典籍局という部局記述されている。 大学南校は、まもなく東京開成学校改組される。明治8年の『東京開成学校一覧』では、「講習必用書籍」の貸出や、蔵書点検縦覧室の設置などが述べられている。翌年の『東京開成学校一覧』では、新たに圖書室」の章が設けられ縦覧室は閲覧室に名前が改められている。当時蔵書34,778冊で、うち6,798冊が国書で、残り漢書洋書となっていた。またこの時期校長浜尾新要請によって、構内には東京書籍館分館として法律書庫が設けられた。東京書籍館明治10年廃止され分館である法律書庫も一般利用停止したが、生徒閲覧継続された。 1877年明治10年4月12日東京開成学校東京医学校大学東校改組したもの)が統合して東京大学(旧)が発足し東京開成学校東京大学法・理文3学部となる。10月には神田一ツ橋校地内にあった教師館を利用し書庫3棟加えて新たな図書館設けられた。閲覧室法学部、理・文学部予備門に分けられていて、学生所属に従って閲覧室および敷設され書庫利用した医学部はすでに本郷にあり、本館2階書籍室を設けていた。 神田一ツ橋にあった法理文3学部本郷移転したのは、1884年明治17年8月のことである。この際図書館本郷新築された法文学部建物2階入った1886年明治19年3月1日公布され帝国大学令によって、東京大学(旧)は帝国大学となったが、同年10月14日には新しい「帝国大学図書館規則」が制定された。この規則では、従来法理文3学部医学部分けられていた図書館形式上統合され全学部の図書帝国大学図書館貯蔵することが定められたが、実際に各部局備え付けられる状態に変わりはなかった。1918年大正7年)の「東京帝国大学附属図書館規則」の改正は、実情反映したものとなり、図書館図書は「本館備付図書」と「教室研究室其他ノ部局備付図書」の2種区分されることとなった法理文3学部本郷移転直後図書館他の建物内に入居していたが、1890年明治23年)には新たな図書館工事開始された。1892年明治25年)に竣工し翌年7月5日移転完了した。この新図書館学生閲覧室職員閲覧室事務室喫煙室3層書庫などを備え学生閲覧室300人を収容した夏目漱石三四郎描写され図書館は、この当時建物である。 その翌日から三四郎四十時間講義をほとんど半分減らしてしまった。そうして図書館にはいった。広く長く天井高く左右に窓のたくさんある建物であった書庫入口しか見えない。こっちの正面からのぞくと奥には、書物いくらでも備えつけあるよう思われる立って見ていると、書庫の中から、厚い本を二、三かかえて出口来て左へ折れて行く者がある。職員閲覧室行く人である。なかには必要の本を書棚からとりおろして胸いっぱいひろげて立ちながら調べている人もある。三四郎うらやましくなった。奥まで行って二階上がって、それから三階上がって本郷より高い所で、生きたものを近づけずに、紙のにおいをかぎながら、――読んでみたい。けれども何を読むかにいたっては、べつにはっきりした考えがない。読んでなければわからないが、何かあの奥にたくさんありそうに思う。 — 夏目漱石、『三四郎』 @media all and (max-width:720px){.mw-parser-output .mod-gallery{width:100%!important}}.mw-parser-output .mod-gallery{display:table}.mw-parser-output .mod-gallery-default{background:transparent;margin-top:.3em}.mw-parser-output .mod-gallery-center{margin-left:auto;margin-right:auto}.mw-parser-output .mod-gallery-left{float:left;margin-right:1em}.mw-parser-output .mod-gallery-right{float:right}.mw-parser-output .mod-gallery-none{float:none}.mw-parser-output .mod-gallery-collapsible{width:100%}.mw-parser-output .mod-gallery .title,.mw-parser-output .mod-gallery .main,.mw-parser-output .mod-gallery .footer{display:table-row}.mw-parser-output .mod-gallery .title>div{display:table-cell;text-align:center;font-weight:bold}.mw-parser-output .mod-gallery .main>div{display:table-cell}.mw-parser-output .mod-gallery .gallery{line-height:1.35em}.mw-parser-output .mod-gallery .footer>div{display:table-cell;text-align:right;font-size:80%;line-height:1em}.mw-parser-output .mod-gallery .title>div *,.mw-parser-output .mod-gallery .footer>div *{overflow:visible}.mw-parser-output .mod-gallery .gallerybox img{background:none!important}.mw-parser-output .mod-gallery .bordered-images .thumb img{outline:solid #eaecf0 1px;border:none}.mw-parser-output .mod-gallery .whitebg .thumb{background:#fff!important} 東京帝大図書館外観1900年学生閲覧室1900年書庫完成した数年後早くも逼迫するようになり、1907年明治40年)度末に増築が行われた。1909年明治42年)度には事務室閲覧室等が改築された。これらの工事経て図書館十字型建物となり、東側書庫西側閲覧室南側事務室等、北側玄関新聞室、法律書庫、閲覧室となった。 この建物について創建当初資料十分に残されていない。しかし、後述する別館設置工事に伴う図書館前広場の整備工事中、旧図書館基礎出土し解体する作業行っていた際に基礎埋め込まれ金属製の箱が発見された。箱の中からは金属プレートが見つかり、その刻印から、工事監理者山口半六文部技師)、設計者久留正道文部技師1881年東京帝国大学卒業であったことが明らかになった。

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