東京大学助手
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1965年に新設の都市工学科衛生工学コース助手(実験担当)となる。専門は下水道。助手就任の1965年に新潟水俣病が発生し、実名での水俣病告発を開始したため東大での出世の道は閉ざされ、「万年助手」に据え置かれた。従来の科学技術者の多くが公害企業や行政側に立った「御用学者」の活動をしてきたと批判し、公害被害者の立場に立った視点を提唱し、新潟水俣病の民事訴訟では弁護補佐人として水俣病の解明に尽力するなどの活動を展開した。 1968年8月27日、朝日新聞が宇井の報告とインタビューを元にして「ネコ400号」実験と追試記録の事実をスクープ。 1968年から1969年にかけ、東大闘争の最も激しかった時期にはWHO研究員としてヨーロッパに留学していた。この間、オランダ国立衛生工学研究所において、パスフィーア老師から酸化溝による排水処理技術を学ぶ。 帰国した1970年より、公害の研究・調査結果を市民に直接伝え、また全国の公害問題の報告を現場から聞く場として公開自主講座「公害原論」を東京大学工学部82番教室にて夜間に開講。以後15年にわたって講座を続け、公害問題に関する住民運動などに強い影響を与えた。 1972年6月、スウェーデンのストックホルムで開催された「国際連合人間環境会議」に医師の原田正純、水俣病患者の濱元二徳、坂本フジエ、坂本しのぶらと出席。水俣病の存在はニュースなどにより世界に広まり、これがきっかけとなって各国は水銀の調査を始めた。 1974年の第10回参議院議員通常選挙に三里塚闘争の指導者である戸村一作が出馬すると、小田実・浅田光輝らとともに「三里塚闘争と戸村一作氏に連帯する会」を発足させた。
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