東京大学での学生時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 15:20 UTC 版)
三浦つとむの『哲学入門』に大きな影響を受けて、認識論の研究を開始した。大学1-2年の頃は学生運動に参加したが、当時全盛だったスターリンの認識論に疑問を持ち、「科学的認識はすべて仮説をもって対象に目的意識的に問いかけることによってのみ成立する」という考えに達した。 板倉は教養学科・科学史科哲学分科の第一期生になったが、科学史を専門とする教授も先輩もいなかったため、3-4年生のときに後輩たちと「自然弁証法研究会」を作った。そこではとくに地動説の歴史を研究し、「科学的な認識の枠組みを変えることは困難なこと」と、「仮説実験的な認識方法を確立すればそうした認識の枠組みを変えることも可能だ」という結論に達した。同じ頃アメリカの科学史家トーマス・クーンが「パラダイム論」を展開していたが、板倉はクーンが不可能としていた「パラダイムの限界を乗り越える方法」を論じることができた。(節「#科学思想」も参照) 大学を卒業した1953年に手作りのガリ版雑誌『科学と方法』を創刊。全国の大学生や大学院生を読者とした。当時の東大大学院歴史学専攻には科学史の専攻課程がなかったので、数物系の大学院に進学し、物理学史を専攻した。そこで科学教育の問題にも関心を深めていった。大学院では指導教授と意見が合わず、半年遅れで理学博士の学位を取得した。卒業後の1959年に友人の紹介で国立教育研究所に就職した。
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