日本映画界との関係
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1951年製作の『白毛女』は、日中国交正常化以前の日本に於いて、日中友好団体などが自主上映を行い、戦後初公開の中国映画として日本の劇場でも上映された。以降、『不屈の人びと』『黄色い大地』『赤いコーリャン』などが日本でも公開され日本の映画賞を獲った。 一方、中国に於ける日本映画の受容は、戦時下の1940年代、建国後の1950年代後半に続き、文化大革命終結後の1970年代後半に三回のブームがあり、中国側から日本映画製作者連盟(以下、映連)に、再三映画交流による日中友好、相互理解の促進というアプローチもあって、岡田茂映連会長が、日本映画の海外輸出に意欲的だったことから、中国好きの盟友・徳間康快 らと共に1979年6月に訪中し、日中友好協会、中国电影家协会(中国語版)、中国電影公司の共催により、中国で初の日本映画祭の開催が決定し、1979年9月4日から10日に北京首都劇場他39館、上海大光明劇場他28館、広州、杭州など中国各都市で日本映画が上映され、各地で大きな人気を博した。民族文化宮(中国語版)で開催された開幕レセプションには、鄧穎超全国人民代表大会常務委員会副委員を始め、映画関係の要人、趙丹、白楊 (女優)(中国語版)ら、著名俳優ら多数が参加し、日本側からは、岡田茂団長、徳間副団長、松岡功東宝社長、根本悌二にっかつ社長、栗原小巻、中野良子、吉永小百合、渡辺篤史が参加し国家的行事の交歓会となった。映画祭で正式に上映された日本映画は5本で、中国で初めて上映されたアニメーション映画といわれる『龍の子太郎』(東映動画製作・東映配給)、『金環蝕』(大映製作・東宝配給)、『愛と死』(松竹)、『先生のつうしんぼ(日活)、『お吟さま』(東宝)が中国語吹替版で上映された。これら作品の選定は、中国映画界を統括する中国電影公司の代表団が1979年2月に来日し、50本近い日本映画の試写選定を行った上で、中国代表団と岡田映連会長で話し合い5本を決めた。当時の中国の映画入場料は約28~45円といわれ、財政事情もあり一本1万5000ドル(約300万円)と世界でも一番安い友好価格であったが、支払いは中国銀行が保証した。中国で大人気だった山口百恵主演の『絶唱』(東宝)、『砂の器』(松竹)、『柳生一族の陰謀』(東映)などが売れた。当時の中国の映画情勢は、撮影所全国7ヵ所(うち劇映画の撮影所は北京と上海)にあり、従業員は1170名で製作本数は年間10本。1978年は長編20、短編300本を製作していた。劇場数は常設4000館、その他3000館。興行は一本立て入替制、上映回数は朝6時より1日8~10回の興行で入場料金は日本円で約28~45円。映画が唯一最大の娯楽ではあったが、四人組後遺症の影響で、映画は作りたくても思うようには作れない状況にあった。当時の中国映画は、教育機関の一つで、思想の伝達手段というウェートが非常に高く、娯楽性もなく日本では商売にならないと見られていた。映連が関わらなかった日本で行われた2回の中国映画祭は全く商売にならなかった。また当時の中国のテレビ普及率は低く、まだほとんどが有線放送で商売になる状況になく、日本の映画関係者の中にも中国の映像マーケットの将来性に懐疑的な考えを持つ者もいたが、ハリウッドを中心とするアメリカの映画関係者が10年先は中国が大きなマーケットになると注目しており、映画が中国の娯楽の中心になるという見方もあった。日本映画祭は1979年から、ほぼ毎年中国で行われ、日本映画の中国への輸出は、日本映画祭を媒介として、その後中国の各地へ配給され一般公開された。それによって持続的な日本映画ブームが形成された。この映画祭で上映された5本以外に、前年1978年に文化大革命終結後に日本映画として初めて劇場上映された『君よ憤怒の河を渉れ』(永田プロ・大映製作、松竹配給)、『サンダカン八番娼館 望郷』(東宝・俳優座映画放送製作、東宝配給)、『キタキツネ物語』(サンリオ製作、東宝東和配給)の3本は、この映画祭以前に中国が買い付け上映されており、中国で人気が出た中野良子らの訪中は、更に一般観客の関心を呼び、日本映画の評価を高め、高倉健や中野良子らは中国でも人気俳優となった。
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