日本映画監督協会創立と晩年
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「村田実」の記事における「日本映画監督協会創立と晩年」の解説
1936年(昭和11年)2月26日、五社協定の桎梏からの解放、映画監督の主体性と権利の確立のため、神田駿河台の駿台荘で集まった劇映画監督東西代表(村田、牛原虚彦、衣笠貞之助、伊藤大輔、伊丹万作)の間に日本映画監督協会設立の同意が成立し、3月1日に東京會舘で発会式が開かれ、初代理事長に選ばれた。監督の力を確立し、業界に認めさせ、その創作力を芸術にまで向上させるために努力した功績によるものであった。しかし同年秋、『新月抄』を撮影中に持病の糖尿病で倒れ東大病院に入院。入院中は牛原虚彦をつづけざまの速達で呼び出し、監督協会の将来を論じ合ったという。 翌1937年(昭和12年)6月、肋膜炎を併発し44歳(満43歳)で死去した。葬儀は小石川の関口教会で初の映画監督協会葬として盛大に開かれ、棺は溝口健二、牛原虚彦、島津保次郎、衣笠貞之助、井上金太郎、青島順一郎の肩に担がれ祭壇に安置された。
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