日本映画界初の女性プロデューサーとなるとは? わかりやすく解説

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日本映画界初の女性プロデューサーとなる

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/15 13:58 UTC 版)

水の江瀧子」の記事における「日本映画界初の女性プロデューサーとなる」の解説

舞台引退後は、テレビで活躍する傍らしばし趣味興じる生活を送っていたが、1954年2月10日兼松鶴田作った借金3000万円を背負い自殺当時住んでいた鎌倉自宅瀧子知らぬ間に担保入れられており、税金滞納のため差し押さえられた。一方で兼松数多く友人知人への遺書瀧子の生活支援頼んでおり、そのひとであった報知新聞社長・深見和夫が、新興映画会社であった日活へ瀧子プロデューサーとして売り込んだ深見当時の状況について次のように語っている。 (前略)彼女の身の振り方気分転換を図ることが急務なので、私は、松竹大谷竹次郎社長故人)、城戸四郎副社長(後に社長故人)、大映永田雅一社長に会った。しかし一世を風靡した人間だけに、かえってそれが災いして先方もその処遇困って容易に返事をもらえなかった。一計案じた私は新発足した日活映画堀久作社長故人)に会い日本最初の女プロデューサー誕生させる気はないか相談もちかけた二号田中絹代)。水の江君の求め条件給料)は月二十万円収入であった税務署滞納税金を月賦返済外部借金月々若干当て残り生活費だった。当時二十万円高額だったが、堀社長交渉する私には自信があった。堀社長、江守専務(清郎、故人)をなんとか口説き落とした1年ごとに更新日活契約プロデューサーとなり、1954年3月より勤務瀧子給料10万円だったとしているが、それでも通常の倍額であった。しばらくは撮影所相手にされず、社内唯一交流があった江守の部屋入り浸るのみの日々送っていたが、勉強兼ねて東宝プロデューサー藤本真澄制作による『女人の館』など数本映画出演し制作様子を見ながら基本覚えていった。 翌1955年には初作品初恋カナリヤ娘』を企画明る作風喜劇が受け、1作で社内における地位向上に成功した。この作品を撮る前、瀧子日劇ミュージックホール看板出ていた岡田真澄美貌に目を留め映画出演させ、岡田瀧子発掘した最初俳優となった岡田以前東宝ニューフェイスにいたが出ず日劇戻っており、「東宝見放され日活誘われたんですから、飛び上がらんばかり嬉しかったですよ」と述懐している。瀧子岡田について「完全すぎてダメんじゃないか」と思ったともいうが、ハーフであることにより味わった苦労が、独特の陰、ニヒルさを生んだではないかとしている。また「美少年岡田の隣に置いた面白いのでは」という発想から、銀座クラブドラム叩いていたフランキー堺出演させている。 2作目の『緑はるかに』ではヒロイン公募が行われ、数千人の応募者の中から瀧子浅丘ルリ子選定命名者監督井上梅次)。この映画ヒットし浅丘は後に日活看板女優となり、数多く映画賞紫綬褒章を受けるなど名女優地位確立した。他に補欠として桑野みゆき、ミュージカルシーン用に山東昭子榊ひろみ滝瑛子安田祥子選ばれ、その全員映画界に残ることになった

※この「日本映画界初の女性プロデューサーとなる」の解説は、「水の江瀧子」の解説の一部です。
「日本映画界初の女性プロデューサーとなる」を含む「水の江瀧子」の記事については、「水の江瀧子」の概要を参照ください。

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