日本の主要古記録一覧
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日本の主要古記録一覧(にほんのしゅようこきろくいちらん)では、日本の主要古記録を一覧に示す。
なお、古記録(こきろく)とは、歴史学研究において用いられる用語で、比較的古い時代に書かれた記録を指す[1]。
「古記録」について
「記録」と「日記」
文献史料の一分野としての記録は、著作物である典籍や、特定の相手に自己の用件や意思を伝達する目的で作成された文書に対し、原則として自己(個人に限らず、官司・寺社なども含む)の備忘のため書きとめたものをいう。ただしこの三者の境界線は必ずしも厳密を期することはできず、たとえば『土佐日記』や『紫式部日記』などは、読者を想定した文学作品ではあるが、その記録性も否定できず、『正倉院文書』を代表する戸籍・計帳などは、個人相互間に授受されるものではなく、行政上保管すべき帳簿として、記録に通ずる性格をもつ。かように記録は語義の広狭によって多様なとらえ方ができるが、こんにち日本史研究の分野においては、記録を狭義に解して、先人の日記を指す用語とすることが広く行われている。
翻って上記の区分に適合する「記録」の語の用例を文献に求めれば、すでに『養老令』職員令の内記職掌に「御所記録」のことを掌るべしと見え、『類聚符宣抄』第六の外記雜掌にある弘仁6年(815年)1月23日付の宣旨における「御所記録」とともに、内記日記や外記日記を指すものといってよい。さらに『花園天皇宸記』に、花園天皇以下諸家の日記を一括して「記録」と明記しているのは、その恰好の例である。同記正中1年(1314年)12月30日条の記事がそれで、「今年所学目録」に内典(仏典)・外典(仏経以外の漢籍)と並んで、「記録」の項を立てて「宇治左府記」を掲げ、ついで年来読了した書目を内典・外書および「本朝書并記録」に区分して掲記し、「日本紀」以下の「六国史、本朝世記、令、律、古事記、古語拾遺」の「本朝書」と並んで、「一条院御記、三代御記、後朱雀院御記、後三条院御記、人左記、小一条左大臣記、小野宮右大臣記、宇治左大臣記」を「記録」として掲げている。さらに同記には、正中2年(1315年)12月30日にも「今年所学目録」を載せ、内典・外典のほか、「記録」と冠して、「山槐記、顕時卿記、長兼卿記、経高卿記、定家卿記」を挙げている。
こうして「記録」は主として日記類を指す用語となったが、「日記」ということば、の意味や用法も古来多岐にわたる。「日記」の文献上の初見は、一世紀の中国後漢の王充の著『論衡』に「然能舉賢薦事、上書日記也、能上書日記者、文儒也」と見えるものであるとされるが、ここでいう「日記」とは、春秋や五経などの孔子の編著を指している。以後、中国では「日、実也」として、内容の真実性に力点をおき、日付を伴わない考証・語録・教訓などの類に「日記」「日録」「日鈔」などの名称を付けたものが多く、日本でも同じような例が少なくない。
しかし一方では、前漢の劉向の著『新序』に見える「日有記」の語句を「日記」の漢典拠とみることもできるし、中国でも日にかけて記された旅行記をはじめ、日々記された日次記の類も「日記」「日録」などとよばれているが、日本ではとくにとれが日記の主流をなした。やや時代は下るが、五山文学僧の義堂周信が、その『空華日用工夫略集』応安4年(1371年)1月26日条に、「每日行住坐臥之際所作事也、日本謂之日記」と述べているのも、中国の例と対比して、日本の日記の特色が日次記にあることを指摘したものであろう。
したがって日本では、六国史以下の日付にかけて記述された編年体の史書も日記とよばれ、また『西宮記』や『北山抄』などの儀式作法の編著も、公家日記が先例故実の典拠とされた風潮を背景として、日記の類に数えあげられた。こうして「日記」の語は日次記とそれと一体の関係にある別記以外にも広く用いられたが、いま上記の史書や儀式書の類を除いて、日次記・別記以外の「日記」と称されたものを整理すると、おおよそ次の四種類に大別できる。
- 事件の勘問調書の類で、『続日本後紀』承和9年(842年)7月19日条に、いわゆる承和の変に関連し、罪人を窮問してその「日記」を奏したととが見えるのは、その早い例であり、以後の記録や文書にも同類の用例が散見し、勘問日記とか勘糺日記と称された。
- 報告書ないし注進状の類で、『東南院文書』に収める天喜5年(1057年)の東大寺修理所注進の「所々修理日記」など、同類の例は少なくないが、とくに事件の発生と経過を事実に即して直写した報告書を事発日記とか申詞日記と称している。
- 特定の行事や行動について、日次記とは直接関係なく独立して記録されたもので、『祈雨日記』などの行事記文や、入宋僧奝然の『在唐日記』などの旅行記がそれに当る。ただこれらは広義の別記といってもよく、円仁の『入唐求法巡礼行記』や成尋の『参天台五台山記』などと共に、記録の一分野として取り扱われている。
- いわゆる日記文学の類である。『土佐日記』や『十六夜日記』などの紀行文、『蜻蛉日記』や『紫式部日記』などの回想録、さらに数多くの歌日記など、「日記」と称する文学作品や著作物がそれに当る。
日次記と別記
しかし上述したように、日本における日記記録の主流は、やはり日次記・別記の類である。日記記録の早期の遺文としては、『日本書紀』の斉明天皇5年(659年)7月条等に引載する『伊吉博徳書』や、『釈日本紀』に収める『安斗智徳日記』および『調淡海日記』などの記文とされる。しかし前者は遣唐使に随行した博徳が後年述作提出したものと推測され、後者は壬申の乱に大海人皇子の舎人として従軍した記録といわれるが、あまりにも断片的で、原文の性格も明らかにできない。日記原本の最古の遺例というべきものは、『正倉院文書』のなかに収められている天平18年(746年)の具注暦である。その暦面に書きとまれた遺文は、2月から3月にわたる10条ほどの短いものにすぎず、写経生あたりのメモかともいわれるが、後世、具注暦に書くものとされた暦記の源流とみなすととができる。
さらに平安時代に入ると、日記の遺存例は急速に増大するが、それらは記載の形態や機能によって、日次記と別記に大別できる。日次記はいうまでもなく日々の出来事を日次を追って書きついでゆく普通の形の日記である。平安時代中頃の藤原師輔の『九条殿遺誡』には、毎日起床後の一連の儀軌(星号唱唄・鏡視・暦視・手洗・誦名など)に続き、「次記昨日事」として前日の事柄を記すよう定め、さらに「又昨日公事若私不得心事等、為備忽忘、又聊可注付件暦」と訓戒している。ただし、実際の実行においては数日分をまとめて記載する場合もあった。鎌倉時代までは巻子本の具注暦に書きつけたものが多く、暦面の二ないし三、四行の空白に記載し、書ききれないときは、裏面に続けて書いたり(これを裏書という)、白紙を貼り継いで書き、さらには記事に関連する文書を貼りとむことも行われるようになった。しかし南北朝時代以降はしだいに冊子本が多くなり、江戸時代には巻子本に書かれたものは稀になる。また平安末期の藤原宗忠の『中右記』、平信範の『兵範記』や、室町時代の伏見宮貞成親王の『看聞日記』のように、記主みずから当初の日記を整理、清書し、あるいは家人らをして筆写させた例もある。
別記は特定の事柄について、日次記の記述を補足するため、別に詳細に記した記録である。『政事要略』廿九の追儺事に引く延暦9年(790年)閏3月15日の「外記別日記」は、別記の存在を示す早い例であるが、上記の『九条殿遺誡』にも、「但其中要枢公事、及君父所在事等、別以記之以備後鑑」とあり、要枢の公事は暦記とは別に詳しく記録して後世の参照に備えるよう定めている。師輔自身もこれに従い、多くの別記を書き残している。朝儀・公事の復興に努めた藤原頼長も、康治1年(1142年)11月の大嘗会のあと、10日間寝食を忘れて36枚に及ぶ別記、「大嘗会日記」を作成したという。とのように別記は本来の目的からして、朝儀・公事を対象としたものが多いが、『中右記』の記主・藤原宗忠の「熊野詣別記」などの例もあり、またさきにも述べたように、円仁の『入唐求法巡礼行記』や成尋の『参天台五台山記』も、広義には別記の類に入れることもできる。
公日記と私日記
公日記
日記はまた記主の立場により、公日記と私日記に大別できる。公日記の古い遺文としては、上記の「外記別日記」のほか、『柱史抄』に引く仁和2年(886年)の「内記日記」、『九条年中行事』に引く寛平2年(890年)の「右近陣記」などがあるが、それらは断片的な逸文ないし取意文にすぎない。平安時代の公日記のうち、一応まとまった記文を伝えるのは、外記日記と殿上日記であり、相対的にいえば、前者は庭上ないし外廷の日記、後者は殿上ないし内廷の日記として、両者相い補う関係にある。
外記日記は、太政官の書記役である外記が職掌として記録する公日記で、上記の「外記別日記」や、『続日本後紀』承和7年(840年)6月7日条に引く「外記日記」が、その存在を示す早い例であろう。その後、外記日記の記載と保管がしばしば督励され、折にふれて先例考勘の用に供されたが、書きつがれた日記は累積して大部のものとなり、後冷泉天皇の治暦3年(1067年)当時、それまでに図書寮の紙工が製紙の料として盗用した分だけでも200巻にのぼったという。しかし平安時代末までにはその記載も衰退し、その役割は外記の私日記や家記によって代替されるようになった。それでも外記日記の遺文は、『西宮記』や各種の部類記などにかなり収められてとんにちに伝えられている。
殿上日記は、当番の蔵人が記録する職務日記である。『侍中群要』に載せる蔵人式には、宇多天皇の勅命として、「当番記事無大小、慎勿遺脱焉」と見え、別に「日記体」と称してその体例を示しているが、とくに末尾に筆録者の官職姓名を署するのは、公日記の面目をよく示している。その伝えられた遺文はあまり多くはないが、一日の記事をほぼ完全な形で遺している例には、寛仁3年(1019年)8月28日の皇太子・敦良親王元服記など二、三あり、その体裁は『侍中群要』所載の「日記体」にほぼ符合している。こうした記述の画一性と継続性が公日記の特色であるが、殿上日記の内容は殿上の公事に従事、参列する公卿・殿上人の私日記と重複する面があるためか、その記載は比較的早く衰退したらしい。久安3年(1147年)6月17日、一上で蔵人所別当となった藤原頼長は、大外記に外記日記の記載の励行を命ずるとともに、蔵人範家を召して「近代殿上日記絶不書、自今日後、任旧可令書番日記」と令したことが『台記』に見えるが、やがて頼長が失脚し、殿上日記も廃絶したものと思われる。
しかし一方では、平安末期以降、社寺や幕府・武家等における職務日記もいろいろ現われ、宮廷でも『御湯殿上日記』以下の女房日記や『議奏日次案』、あるいは禁裏・仙洞の番衆所日記や執次詰所日記、さらには各宮家や公家の家司日記など、各種各様の公的な日記が筆録されて、近代の広範な職務日記に及んでいる。
私日記
私日記の遺文として最も古いものは、前述の天平18年(746年)の具注暦に書かれた記文であるが、ある程度まとまった記述を伝える日記は、『宇多天皇宸記』に始まる。以後、天皇以下皇族、公卿以下官人、武家、僧侶、神官、学者、文人から庶民に至るまで、各界各層の人びとによって書かれた日記が数多く伝存している。
しかしその中核をなすものは、朝廷に奉仕する廷臣らの公家日記であり、それがまた日本の日記の特徴にもなっている。朝廷公事の記録を主目的とした私日記の先駆としては、八条式部卿・本康親王の『八条式部卿私記』を挙げるととができるが、公日記に対して「私記」と称している点も見逃せない。公家の私日記には、記主の身分や職務、性格などが反映してさまざまな様相を呈するが、ことに中世以降、家職・家格の固定化に伴って、さらに特徴が鮮明になった。また朝廷の公事のほか、世上の見聞なども記録され、時代がくだるに従って、生活記録的な面も強くなるが、政情や世相に対する批判的な記述には、記主の主観や感情が強く反映する懼れがあることにも留意する必要がある。しかしそとに記主の人間像がもっともよく現われ、読む者に語りかける趣すらあるのは、古文書などでは味わえない楽しみでもある。
日記の記名
上述のように、公家の私日記は、はじめ具注暦に書きつけるものとされたので、記主みずからは「暦記」と称するのが普通であったが、おもに後代の人によって個別的な名称がつけられた。それを大別すると、
- 諱。大臣以上は公、三位以上は卿、四位ないし五位は朝臣(ただし清原氏は真人、小槻氏は宿禰などの例もある)をつける。たとえば、三条西実隆の『実隆公記』、藤原為房の『為房卿記』、壬生晴富の『晴富宿禰記』などが挙げられる。ただ四位以下の場合は諱のみで記名を称する場合も多く。また、平信範の『人車記』(「信」の偏である「人」と「範」のつくりである「車」を取って命名された)のように、諱の偏旁による例もあれば、中山忠親の日記『達幸記』(諱「忠親(ただちか)」の唐風反名)、さらには中山定親の日記『薩戒記』(諱「定親(さだちか)」の唐風反名)のように、諱の唐風反名(二字の人名の上下の音や訓を利用してつくる変名の一種)による例もみられる。
- 諡号。藤原忠平の『貞信公記』(忠平の諡号)、藤原実頼の『清慎公記』(実頼の諡号、また清慎の偏をとって『水心記』ともいう)などの例がある。
- 氏号・家号。大江匡房の『江記』、菅原和長の『菅別記』、藤原師輔の『九暦』、源師房の『土右記』(家号の土御門による)など。なお家号ではないが、邸宅の所在地名によるものに、藤原為隆の『永昌記』(四条の唐名、永昌坊による)がある。
- 官職。式部卿・重明親王の『吏部王記』(吏部は式部の唐名)、春宮大夫・藤原資房の『春記』、大宰権帥・源経信の『帥記』、左大臣・藤原頼長の『台記』(大臣の唐名、三台による)などの例がある。
- 諱・官職の合成。左大弁・源経頼の『左経記』、兵部卿・平信範の『兵範記』、民部卿・勘解由小路経光の『民経記』などがある。
- 氏号・家号・官職の合成。左大臣・源俊房の『水左記』(水は源の偏)、小野宮右大臣・藤原実資の『小右記』、中御門右大臣・藤原宗忠の『中右記』、葉室中納言・葉室定嗣の『葉黄記』(黄は中納言の唐名、黄門による)など。この類の記名がとくに多い。
- 尊称・謙称。たとえば、藤原宗忠は父・藤原宗俊の日記を『尊林』と尊称する一方、おのれの日記を『愚林』と謙称した。また藤原頼長も父・藤原忠実の在世中、すでに父の日記を『殿暦』と尊称し、これが後世まで忠実の日記の通称となった。そのほか、三条実房の『愚昧記』、藤原資季の『荒凉記』、近衛道嗣の『愚管記』など、謙称の類も少なくない。
- 先代の日記の呼称に関連した名称。たとえば、前述の「諡号」の条で触れた藤原実頼の日記は『小野宮記』や『水心記』と呼ばれ、その孫(養子)・実資の日記は『後小野宮記』や『続水心記』と称されます。また、「尊称・謙称」の条で言及した藤原宗俊の日記『尊林』に対して、その子・宗忠の日記は『愚林』、宗忠の子・宗能の日記は『愚葉』と呼ばれました。さらに、藤原忠通の日記は『玉林』、その子・九条兼実の日記は『玉葉』、兼実の孫・道家の日記は『玉蘂』、道家の子・一条実経の日記は『玉藻』、実経の五代の孫・経通の日記は『玉英』と称される。
以上のほか、関白にはなっていない藤原道長の『法成寺摂政記』が、後世、『御堂関白記』(御堂は法成寺の称で、かつ道長の尊称)と通称された例や、顔色が黒いため「黒帥」とあだなされた大宰権帥・藤原季仲の日記が「玄記』(玄は黒)とよばれた例、また中原師遠の日記が『鯨珠記』(名称は、大治2年5月26日条に肥前国が白河法皇に鯨の珠を献上したとの記載に由来する)と称される例などもあるが、公家日記の記名の大部分は、上記の八分類のいずれかに入るとみてよい。
主要な古記録一覧
略 | 全 | 相関情報検索 |
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増補続史料大成 | 臨川書店 | 臨川書店 |
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古記録 | 大日本古記録 | 岩波書店 |
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目録学 | 日本目録学の基盤確立と古典学研究支援ツールの拡充 | 田島公 |
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京大 | 京都大学史料叢書 | 思文閣出版 |
三の丸 | 古記録にみる王朝儀礼 | 三の丸尚蔵館 |
扉 | 日記が開く歴史の扉 | 思文閣出版 |
冷泉 | 冷泉家時雨亭叢書 | 朝日新聞社 |
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史料 | 東京大学史料編纂所叢書 | 八木書店 |
天理 | 新天理図書館善本 | 八木書店 |
内閣 | 内閣文庫所蔵史籍叢古代中世史篇 | 汲古書院 |
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京図(平)
陽明、三の丸、扉、天理
天理複製(熊野御幸記)
参考文献
・高橋秀樹 (『古記録入門』、増補改訂版)(吉川弘文館、2023年 ISBN9784642084352)
脚注
- ^ 小学館『デジタル大辞泉』。
外部リンク
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