日本の上水道の歴史
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日本では、16世紀半ば、北条氏康の小田原支配時に早川から水を引き、小田原城下に飲用として供した小田原早川上水が最古の水道と考えられている。 豊臣秀吉の小田原征伐に参陣した諸大名たちは、この上水を見て、自領の上水開設の参考にしたものと考えられている。 徳川家康もその一人で、1600年頃の江戸の都市建設のために井之頭池から引いた神田上水をはじめ、その後、玉川上水、千川上水などが江戸の町に引かれていった(後に青山・亀有(本所)・三田の3つを加えて「六上水」と称した)。 現代から見れば、浄水施設や各戸給水がないという問題点があったものの、当時世界でもっとも進んだ設備を有していた。 元和2年(1616年)年、赤穂藩の池田氏は埋設式かつ各戸給水の都市型上水道を敷設した。海から近く、井戸に海水が混じるため、都市開発のために真水が必須であった赤穂では、郡代垂水半左衛門指揮の下に、城中だけではなく城下の世帯にまで行き届く水道を整備した。埋設管部分には備前焼の土管を用い、堀を越える際は地中でサイホンを用いていた。 次いで、讃岐高松藩と言われている。藩主松平頼重は、玉川上水より9年早い寛永21年(1644年)、矢延平六に命じて、高松城下に、配水枡・配水管を地中に埋設した本格的な上水道を敷設した。 また、日本で現在も使われている中で最古の水道は、熊本県宇土市に在る轟水源を水源とする轟泉水道で宇土藩初代藩主細川行孝が造り、寛文3年(1663年)に完成したものである。始めは丸い土管の水道管で造られていたが、完成後100年程して6代目藩主細川興文のとき丈夫で長持ちする石の水道管に改修され今日に至る。 日本の近代的水道は、1887年(明治20年)10月17日に、横浜の外国人居留地で給水されたのが始まりである。当時居留地では、井戸を掘っても塩水が混じり、飲用に適さなかった。そこで当時の神奈川県知事沖守固は、英国陸軍工兵大佐の技師ヘンリー・S・パーマーを顧問に招き、資材も英国からの輸入に頼る形で、相模川の上流に水源を求めて近代水道の建設に着手した。 1885年(明治18年)に始められた工事は、1887年(明治20年)9月に竣工し、翌月から給水が始められた。近代水道は、1890年(明治23年)に水道の全国普及と水道事業の市町村による経営を内容とする水道条例が制定されたことにより、都市部で急速に実用化された。 旧来の水道設備が充実していたために整備が遅れていた東京でも、1898年(明治31年)には多摩川から淀橋浄水場を経由して、市内へと配水する設備が完成した。 日本に近代上水道が導入されたきっかけとしてはコレラなどの伝染病への対策という面もあるが、多少なれど事業当事者にとっての利潤という面も無視できなかった。東京府水道の建設などは当時の政府/内務省と当時の野党である改進党の思惑に、条約改正を目論む外務省が関わる東京改造計画が絡んだ。 日本では上水道網の導入が検討されていた明治中期、上水道が需要を集める保証は無かったとされている。特に湧水に恵まれた京都市などでは「京都の人がわざわざ金を払って水道を使うだろうか?」「使うだけの『水質』の魅力が水道にあるのか?」と甚だ疑問の目が向けられていた。
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