旅と執筆
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 00:07 UTC 版)
ガートルード・ベルは1888/1889年の冬のシーズンを継母の義兄に当たるフランク・ラッセルズ(英語版)が公使として働くブカレストで過ごした。ガートルード・ベルはブカレストでの外交晩餐会や舞踏会に参加し、ベルンハルト・フォン・ビューローや後にインド総督になるチャールズ・ハーディングなどに会った。また、ルーマニア国王カロル1世とその后であるエリサベタにも紹介された。ブカレストではヴァレンタイン・チロル(英語版)にも初めて出会い、生涯にわたる親しい友人になった。彼女はコンスタンティノープルを経由してオリエント急行で帰国の途についた。 ルーマニアにも同行した義理の従兄弟のビリー・ラッセルズがベルの結婚相手の最有力候補のひとりだったが、ガートルード・ベルは数ヶ月後に彼に興味を失ってしまった。彼女は他の候補者にも飽きていた。彼女はブカレストやコンスタンティノープルに滞在した事で、国際性の点では他の男性を凌駕していた。ベルから継母への手紙で、自分が独身のままでは社会的に疎外された存在に押し込められる事を自覚し、苦しんだ事を証明している。手紙の最後は独身生活が続く事を暗示する言葉で締めくくっている。 "70年というのは本当に長いと思いません?" 1892年、ガートルード・ベルの3度目の社交シーズンが終了したが、候補者の中で彼女に求婚した者も彼女が一過性以上の興味を持った者もいなかった。1892年の春、彼女は義理の伯母のメアリー・ラッセルと一緒にテヘランに向かった。その当時フランク・ラッセルズはブカレストからペルシャに移り、テヘランのナーセロッディーン・シャーの宮廷でイギリスの特命全権公使を務めていた。1892年5月、彼を訪ねるためにペルシャを訪れた。彼女は1894年に刊行した初の随筆『ペルシャの情景』でこの旅の様子を記している。テヘラン滞在中の彼女の仲間の中にはイギリス公使館の外交官だったヘンリー・カドガンがいた。彼は知的な読書家であり熱心なスポーツマンで、ガートルード・ベルと同じく歴史に興味を持っていた。2人は惹かれあう様になり、求婚を受けた。しかし、ヒューとフローレンスのベル夫妻は結婚に同意する事を拒んだ。カドガンはイギリス貴族のカドガン伯爵家の一員だったものの父親が破産寸前で、若手外交官としての俸給のみで生計を立てていた。さらにヒュー・ベルはカドガンに賭博癖があり、多額の借金を抱えている事も掴んでいた。 ガートルード・ベルは両親の反対に屈したものの、カドガンが外交官としての十分なキャリアを早く築き、彼女の父親が求める生活水準を実現する事ができる様になるだろうと考えていた。半年後、彼女は当初の約束通りイギリスに帰国した。ロンドンで『ペルシャの情景』を執筆する事で、カドガンを待つ暇を潰し、ペルシャの詩人ハーフェズの詩の翻訳を始めた。彼女によるハーフェズの英訳は現在でもその文学性を高く評価されている。イギリスに帰国して9ヶ月後、彼女は、テヘランからヘンリー・カドガンが川に落ちて肺炎を起こし、しばらく後に死んだという知らせを受け取った。 その後の10年間の大半を世界各地を旅し、スイスで登山をし、考古学と言語の習得に情熱を注いだ。 彼女はアラビア語、ペルシャ語、フランス語、ドイツ語に堪能になり、イタリア語とオスマン語を話した。2度にわたって世界一周旅行を行い、旅行中の1899年と1903年には日本にも立ち寄っている。後に著書『シリア縦断紀行』でベルはシリア訪問時戦われていた日露戦争について、シリアの各地で質問攻めにされたと記述している。初の日本訪問の同年、ベルは再び中東を訪れ、アラビア語を学ぶためエルサレムに長期滞在するかたわら、 パレスチナとシリアを回り、1900年にはエルサレムからダマスカスへの旅で、エッドゥルーズ山地に住むドゥルーズと知り合いになった。彼女はその後の12年間でアラビアを6度横断した。 1899年から1904年までの間、彼女はラ・メイジュ(英語版)やモンブランなど、多くの山を制覇し、スイスのベルナー・アルプス(英語版)で10の新登山道や初登攀を記録した。ベルナー・オーバーラントにある2,632mのゲルトルードシュピッツェ(Gertrudspitze)は、1901年に彼女と登山ガイドのウルリッヒとハインリッヒ・フューラーが初登頂した事から、彼女の名前が付けられた。しかし、彼女は1902年8月、フィンスターアールホルン(英語版)の挑戦に失敗し、雪、ひょう、雷などの悪天候の中、ガイドと共に「ロープの上で48時間」を過ごす事を余儀なくされ、危うく命を落としかねない恐ろしい状況の中、岩壁にしがみついていた。
※この「旅と執筆」の解説は、「ガートルード・ベル」の解説の一部です。
「旅と執筆」を含む「ガートルード・ベル」の記事については、「ガートルード・ベル」の概要を参照ください。
- 旅と執筆のページへのリンク