旅と受賞
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/03 03:07 UTC 版)
「エリザベス・ビショップ」の記事における「旅と受賞」の解説
ビショップは早い時期からひとりで生活するには十分な資産を早世した父から相続しており、亡くなるまでの間に父の遺産を使い切ることがなかった。その結果、ビショップは生計のことを気にせずに多くの土地を旅行し、彼女の詩で語られているようにたくさんの町や国で生活することができた。1930年代中盤の何年間かはヴァッサー大学時代の同級生で製紙工場主の娘のルイーズ・クレインとフランスに住んだ。1938年にビショップはクレインと一緒にフロリダ州キーウェスト、ホワイトストリート624番地に家を購入した。キーウェスト滞在中、ビショップはポーリン・ファイファー(アーネスト・ヘミングウェイの二人目の妻。1940年にヘミングウェイと離婚した)と親交を持った。 1946年、マリリン・ムーアの推薦でホートン・ミフリン賞(詩部門)を受賞した。処女詩集「北と南」は1000部印刷された。『北と南』にランドール・ジャレルが寄せた「全ての詩の底辺にはこの言葉がある「わたしはそれを見た」」という批評がビショップの才能を鮮やかにあらわしている。 1951年にブーリン・マウアー大学から受け取った2,500ドルの奨学金を元にビショップは南米一周の船旅に出た。その年の11月にブラジルのサントスに到着した。ビショップは2週間ほどの滞在を予定していたが、結局15年間住むことになった。 ブラジル滞在中の1956年、ビショップはピューリッツァー賞 詩部門を『北と南/寒い春』で受賞する。受賞作は彼女の初めて出版した2冊の詩集をあわせたものだった。また、ラテンアメリカの言語に関心を寄せ、中南米の詩を英語に翻訳するとともに、彼らの詩の影響を受けた。影響を受けた詩人の中にはメキシコの詩人、オクタヴィオ・パスやブラジルの詩人ジョアン・カブラル・デ・メロ・ネトとカルロス・ドルモンド・デ・アンドラーデがいる。カルロス・ドルモンド・デ・アンドラーデについてビショップは「私は彼のことをまったく知らなかった。彼はとても人見知りに見えたし、私もそうだった。道で夜に一度会ったことがある。同じレストランから出てきたところで、自己紹介をしたとき彼は私の手に上品にキスをした。」と語っている。 ピューリッツァー賞に加え、ビショップは全米図書賞、全米批評家協会賞、二度のグッゲンハイム奨学金、そしてイングラムメリル財団助成金を受け取った。1976年にはノーベル文学賞に次ぐ権威を持つとされるノイシュタット国際文学賞を女性としては初めて受賞した。1988年にラジャ・ラオが受賞するまでの間、唯一のアメリカ人の受賞者である。 1970年代、遺産が尽き始めたビショップは大学で数年間教鞭をとった。ワシントン大学で短期間教えた後、ハーバード大学で七年間教壇にたった。ニューヨーク大学、マサチューセッツ工科大学でも教えた。メイン州ノースヘイブンに別荘を持っており、彼女はしばしば夏をそこですごした。 1977年、ビショップは最後の詩集『地理三課』を出版し、1979年10月6日に脳出血でなくなった。68歳没。マサチューセッツ州ウースターに葬られている。
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