文法・正書法・辞書の作成
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「プンペウ・ファブラ」の記事における「文法・正書法・辞書の作成」の解説
ファブラはかなり若い頃からカタルーニャ語研究に身を捧げた。友人に連れられて訪れたバルセロナのアタネウ(文化クラブ)では、多くの会員が言文一致を目指すファブラの理念に賛同し、『ラベンス』(前進)という雑誌を発行してカタルーニャ語の新しい正書法や文法の普及を目指した。ファブラ自身は劇作家のヘンリック・イプセンや詩人のモーリス・メーテルリンクの作品をカタルーニャ語に翻訳し、知識人を通じてこれらの正書法や文法の社会への浸透を試みた。 1891年には自身初の文法書として『現代カタルーニャ語文法試論』を著した。この文法書はカタルーニャ語の口語を初めて記述した文法書である。1902年にはバスク地方のビスカヤ県ビルバオにあるビルバオ工科学校(現バスク大学)の化学教師職に就いたが、この時期にも何冊ものカタルーニャ語の文法書を執筆している。著作家で出版者のジャウマ・マッソー・イ・トレンツ(カタルーニャ語版)、著名な法曹で著作家のジュアキン・カザス・イ・カルボー(カタルーニャ語版)とともに、1904年にはTractat d'ortografia catalanaを発表した。1906年には第1回カタルーニャ語国際会議で画期的な提言を行い、カタルーニャ語言語学の分野で一定の評価を得た。 1907年にはインスティテュ・ダストゥディス・カタランス(スペイン語版)(カタルーニャ研究院)が設立され、1910年にはこの研究院に言語部門が開設された。ファブラ、言語学者のアントニ・マリーア・アルクベー(スペイン語版)、詩人のジュアン・マラガイ、劇作家のアンジェル・ギマラーなどが委員を務め、カタルーニャ語の規範辞書を編纂することで合意に達した。1911年にはバルセロナ大学にカタルーニャ語講座が設置され、ファブラが教授に就任している。 1912年にはビルバオからバルセロナに戻り、カタルーニャ研究院言語学部門のカタルーニャ語教授となった。同年には総合的な文法書である『カタルーニャ語文法』を著し、1913年にはファブラの手によって、カタルーニャ研究院からスペイン語による『正書法規範』が発表された。ファブラは後にカタルーニャ研究院の院長となっている。 また、1911年にファブラが作成した原案を基に正書法の議論が行われ、1917年にはようやく研究院の手によるカタルーニャ語正書法が刊行された。言語部門の初代委員長を務めたアルクベーとファブラの考えは大きく異なっており、アルクベーは結局研究院を去ってファブラを攻撃したが、両者は1926年に和解している。 1918年には『カタルーニャ語文法』も完成させた。ファブラはカタルーニャ産業大学のカタルーニャ語講座で主任教授を務めていたが、1923年にミゲル・プリモ・デ・リベラがクーデターを成功させると、ファブラは退任させられた。1926年にはレアル・アカデミア・エスパニョーラ(王立スペイン語アカデミー)にカタルーニャ語、バスク語、ガリシア語の代表者も入会するようになり、ファブラもスペイン語アカデミーの会員に推挙されたことがあったが、近代カタルーニャ語の確立を優先することを理由に辞退している。プリモ・デ・リベラ独裁政権下でもファブラは辞書編纂の作業を続け、独裁体制崩壊から2年後の1932年にはついに『カタルーニャ語辞典』が刊行された。この辞書に対しては批判の声もあったが、多くの知識人や文化人は辞書の完成を喜んだ。 私がロビンソン・クルーソーのような目に遭うことになったら、無人島にせめて二冊の本だけは持っていきたいと思うだろう。ジャシン・バルダゲーの詩の本とプンペウ・ファブラの辞書である。 — アウグスティ・カルベット(カタルーニャ語作家)、 ミゲル・プリモ・デ・リベラの独裁体制が崩壊した後の1932年には、大衆向けの辞典として『一般カタルーニャ語辞典』を刊行した。カルラス・スルダビラ(スペイン語版)(劇作家・詩人・ジャーナリスト・小説家)、ジュゼップ・ビセンク・フォシュ(スペイン語版)(詩人・著作家・随筆家)、サルバドール・アスプリウ(英語版)(詩人・劇作家・小説家)など、20世紀のカタルーニャ地方を代表する文筆家たちがこの辞典でカタルーニャ語を学んだとされ、この辞典は現在でも「ファブラの辞典」として親しまれている。20世紀後半まで規範辞典としての価値を維持し続け、現在でもEdhasa社によって出版されて入手を容易にしている。1934年にはバルセロナ詩歌競技会会長に就任し、この年はカタルーニャ語規範化の基礎が確立した年とされる。 この時期には総合スポーツクラブであるFCバルセロナの文化活動部長も務めている。1932年にはバルセロナ自治大学の教授に任命され、翌年には大学の統治評議会の会長に就任したが、1934年10月6日にスペイン共和国の軍隊がリュイス・クンパニィス率いるカタルーニャ自治政府を制圧し、ファブラは投獄された。
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