成田高校時代まで
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専業農家の家庭に生まれ育つ。小学校は自宅から約2.5kmの距離があり、そこを歩いて通学したことに加え、しばしば登校中に忘れ物に気づき自宅まで走って取りに戻ったりしたことが、足腰や心肺能力を高めるきっかけになったのではないかと自ら述べている。小学生時代は足が遅いという理由で運動会は嫌いだった。 岬中学校では、当時人気のあった漫画『エースをねらえ!』に憧れて軟式テニス部で活動していた。2年生の冬、町内一周駅伝大会に中学でチームを組むに当たり、陸上部だけではメンバーが足りないために他のクラブからも選手が集められた際にその一人として参加、本番では高校生3人を抜いて優勝に導いた。これを契機に3年生ではテニス部とかけもちの形で陸上部に所属し、千葉県大会の800mに千葉県中学記録で優勝、全国大会でも4位となる。教員を志望していた増田は高校で陸上競技を続けるつもりはなかったが、走りを見た私立成田高等学校の陸上部監督である瀧田詔生 がその冬に自宅を訪れてスカウトし、同校に進学した。千葉県立佐倉高等学校の教員だった小出義雄も少し遅れて(小出によると「一週間差」)スカウトに来たという。自宅から成田高校まで遠かったことから、瀧田の自宅にある離れに同学年で同じ中距離走の選手だった樋口葉子とともに下宿した。 高校1年生の2学期に貧血にかかり、瀧田からマネージャーへの転向を指示される。それに反発した増田はいったん陸上部をやめて自宅に戻り、千葉県立長生高等学校への転校を考えたり(困難なために断念)、自宅から2時間半かけて成田高校に通学したりしたが、半年後に復帰。「(マネージャー転向を指示した)瀧田を見返してやろう」という思いから猛練習を重ねる。その成果が長距離に転向した3年生の1981年にあらわれた。4月19日に中央大学で行われた記録会で、10000m(33分20秒0)、5000m(途中計時16分48秒4)の日本新記録を出したのを皮切りに、兵庫リレーカーニバル(5000m、15分53秒2=日本新記録、途中計時の3000m・9分30秒6も日本新記録)、スポニチ国際陸上(3000m、9分14秒81=日本新記録)、アジア陸上競技選手権大会(3000m、9分18秒17=優勝)など好記録を重ねた。6月7日のアジア陸上10000m(オープン競技)では、その年のボストンマラソン優勝のアリソン・ローや、同3位のジョーン・ベノイト(後のロサンゼルスオリンピック女子マラソン・初代金メダリスト)らと互角に渡り合い、彼女らを抑えて33分13秒22の日本新記録で優勝した。身長173cmのローを150cmの増田が抜き去る模様は、国立競技場の観客を大いに沸かせた。一方、当時女子マラソンの日本最高記録保持者だった佐々木七恵(当時岩手県の教職員だった)は、スポニチ国際やアジア陸上(3000m)で同走したが、あまりの速さの違いに「別世界の人みたい」と感想を漏らすほどであった。これを契機に佐々木は以前より指導を受けていた中村清により熱心にコーチを求めていくこととなった(翌年、エスビー食品陸上部に入部)。6月21日の札幌タイムス20キロロードでも日本最高記録で優勝、途中計時の10キロでも日本最高を記録し、トラックの3000m・5000m・10000mとロードの10キロ・20キロの日本記録をすべて塗り替えた。こうした活躍に、マスコミからは「女瀬古」のあだ名がつけられた。10月の日本陸上競技選手権大会でも3000m、10000mで2冠を達成する。このうち10000mは自己の記録を更新する33分01秒5の日本新記録であった。 1982年元日に18歳となり、日本陸上競技連盟が定めるマラソン参加資格を獲得。その時点ですでにマラソンへの挑戦がマスコミでは期待されていた。2月21日、千葉県光町(現在の横芝光町)の小さな大会(千葉県選手権光町マラソン)でマラソンに初出場する。「初めてのフルマラソンは注目されない地方の小さな大会で楽に走らせてみたい」という瀧田の意向による出走だった。結果、2時間36分34秒の日本最高記録で優勝し、途中計時の30キロも合わせて、長距離全種目の日本記録を1年で塗り替えるという快挙を達成した。その後も3月7日の中日20キロロード(名古屋国際女子マラソンの前身)では2位ながら1時間6分55秒で世界最高記録を上回った。日本の女子選手が世界最高記録を出したのは、1927年の人見絹枝(200m)以来55年ぶりであった。これらの結果、女子マラソンの種目がオリンピック初の正式プログラムとなる、1984年のロサンゼルス五輪への出場を実業団で目指すこととなった。
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