帝国防衛委員会(CID)の会議
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「ヘンリー・ヒューズ・ウィルソン」の記事における「帝国防衛委員会(CID)の会議」の解説
モーリス・ハンキー(英語版)(当時海軍本部、帝国防衛委員会書記官補) は、(1911年8月15日のレジナルド・マッケナ海軍卿への手紙で)ヘンリーの「大陸における軍事作戦のための完全な強迫観念」について不満を述べ、彼の自転車による視察をあざ笑い、陸軍省を同意見の将校で満たしたと非難した。ニコルソン参謀本部総長の要請を受け、ヘンリーは書面(8月15日付。以前の10年間を超える彼のアイディアの進化に基づくもの)を準備したが、その書面で彼は、ドイツがフランスを打ち破って大陸支配を成し遂げる事を妨害するには、英国の援助が必要であり、その援助は結果に倫理的及び軍事的な効果を及ぼすと主張した。彼は、フランスはドイツに対して、動員13日目までは前線の師団数が63個対57個と上回って優勢だが、17日目までにはドイツがフランスを96個対66個師団と上回る、しかしながら作戦地域の通過可能部分の道路の狭さにより、ドイツは初期段階では最大54個師団しか配備できないだろうから、それは海外派遣軍(BEF)の6個歩兵師団をして結果に対する分不相応な影響を与えさせる事ができると主張した。アーネスト・メイは後に(著書「敵を知る事:2つの世界大戦間の諜報の評価」(1984年)において)、ヘンリーが上述の師団数を「作り上げた」と主張したが、それはエドワード・ベネットの「ヘンリーが主張した数値はそれほど間違っていない。」とする主張により疑問を呈されている(近代史ジャーナル、1988年6月)。 上記のヘンリーの主張が、8月23日開催の帝国防衛委員会(CID)会議における参謀本部の立ち位置になった。この会議には、首相のハーバート・ヘンリー・アスキス、ホールデイン陸軍大臣、マッケナ海軍卿、チャーチル内務大臣、グレイ外務大臣、ロイド・ジョージ大蔵大臣、ニコルソン参謀本部総長、フランス人(海外派遣軍の司令官のような存在)とヘンリーは陸軍を代表し、アーサー・ウィルソン(英語版)(海軍本部第一海軍卿(軍令部長))とアレキサンダー・ベセル(英語版)(海軍情報部長官)らが出席した。ウィルソン提督は自身のまずい主張を行い、海外派遣軍の準備ができる頃には、ドイツ軍はパリまでの中間地点にいると思われ、バルト海沿岸かアントワープに1個師団が上陸する一方で5個師団が英本国を守るべきである(英国が召集できると期待されていた4~6個師団では、仏独双方70~80個師団超の戦争においては、ほとんど影響を持たないため)と提案するものだった。ヘンリーは、英国海軍の計画は「自分がこれまでに読んだ最も子供じみた書面の一つ」であると思った。ヘンリーは、明らかに帝国防衛委員会の会議が初めて聞く彼自身の計画を提示した。ハンキー書記官補は、自身はその計画に完全には同意しなかったが、ヘンリーの明快な演説が勝利を収めたと記録した。アスキス首相は、海軍に対し、陸軍の計画に賛成するよう命じたが、首相自身は4個師団のみを派遣する事を選択した。ハンキー書記官補はまた、1914年に至ってさえもジョン・フレンチ元帥とダグラス・ヘイグ(当時、海外派遣軍の第一海軍司令官)は、同会議で何が決定されたのか完全には知らず、ジョン・モーリー(英語版)(枢密院議長)とジョン・バーンズ(英語版)(地方政務院(LGB)長官)は、その決定を受け入れる事ができず内閣を辞職し、チャーチルとロイド・ジョージは大規模な軍隊の派遣をフランスに約束するという意味合いを決して完全には認めなかったと記録した。会議後、ハンキー書記官補は、動員計画を詳しく記述した「戦争教本」を作り始めたが、海外派遣軍の正確な配備は1914年8月4日まで未定だった。 ウィルソンは、フランスのモブージュに軍を配備する事を勧めた。彼は(それは後で誤りと分かったが)、ドイツ軍はマース川南方のベルギー領のみに侵攻するだけであり、更に北方を攻撃するという事は、リエージュ、ユイとナミュールへの攻撃、マーストリヒト突出部を横切る事によるオランダの侵攻を意味し、ベルギーの抵抗を引き起こすだろうと考えていた。次の数週間、ヘンリーは、ベルギーとの協定を得る事に熱心なチャーチル内務大臣(会談を3時間行った一人)、グレイ外務大臣とロイド・ジョージ大蔵大臣といくつかの会談を行った。これは、ホールデイン陸軍大臣とニコルソン参謀本部総長の反対を引き起こし、ホールデインはチャーチルに「ヘンリーは少々衝動的だ。彼はアイルランド人で…ベルギー軍のほとんど何も知らない。」と伝え、ニコルソンは、ヘンリーによる1911年9月20日付の長々とした文書(ベルギーとの合意を主張するもの)を抑え込んだが、結局、その文書は1912年4月に、ニコルソンの後継者ジョン・フレンチ卿により帝国防衛委員会に回付された。
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