帝国防衛委員会の創設
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/06 23:55 UTC 版)
「アーサー・バルフォア」の記事における「帝国防衛委員会の創設」の解説
1905年には、フランスが植民地化を狙っていたモロッコ・タンジールにドイツ皇帝ヴィルヘルム2世が軍艦で訪問するという第一次モロッコ事件が発生し、バルフォアに国防強化を決意させた。 大英帝国全体の帝国防衛体制の確立を求めるチェンバレンの主張を取り入れる形で帝国防衛委員会(英語版)を設置した。これは自治領と帝国防衛体制を検討するための委員会であった(実際に自治領首相に参加を求めるようになったのはアスキス自由党政権下の1911年になってのことだった)。これと並行して陸海軍の再編成も進めていった。 この頃、バルフォアは「自由党政府になってももはや引き返せないほど軍事支出を確実にしておくまでは、政権を降りない」と述べている。実際、国防強化路線が自由党政権にも引き継がれ、帝国防衛員会は後にアスキス内閣によって「将来起こる戦争に備えて陸海空三軍と国内戦時体制の調整を行い、また自治領とともに帝国全体の防衛計画を立てる機関」に再編されていくことになる。
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