変の報せと各将
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詳細は「四国攻め」、「魚津城の戦い」、「伊賀越え」、および「天正壬午の乱」を参照 信長の死は、各地に伝えられた。 丹羽長秀は神戸信孝と共に四国平定の任を負い、副将の三好康長、蜂屋頼隆、津田信澄と共に大坂及び堺で渡海作戦にとりかかっていた。5月29日、信孝軍は摂津住吉に着陣し、また津田・丹羽勢は大坂、蜂屋勢は和泉岸和田に集結して、当初6月2日予定の渡海に備えていた。変報は6月2日午前に伝わったとみられる。津田信澄は信長の弟織田信行の子で、近江高島郡大溝城(滋賀県高島市)の城主であったが、光秀の婿であったため内通を疑われ、6月5日、信孝と長秀の軍勢に襲撃されて野田城(大阪市福島区)で信孝家臣の峰竹右衛門、山路段左衛門、上田重安によって殺害された。京に近い大坂・堺にあった長秀と信孝は、光秀を討つには最も有利な位置にあったが、逆に緘口令が徹底できなかったため兵の多くが逃亡し、やむをえず守りを固めて羽柴軍の到着を待つ形となった。 柴田勝家は、北陸戦線にあって上杉景勝の支配する越中魚津城(富山県魚津市)を攻略中であり、6月3日の午前6時頃魚津城を陥落させ、その直後、余勢を駆って越後へ向かおうとしていた矢先に変報が届いた。勝家は後事を前田利家、佐々成政らに託し、直ちに魚津から船に乗って越中富山を経て居城の越前北庄城(福井県福井市)に帰り、光秀討伐の準備を開始した。光秀征討の先鋒として養子であった甥の柴田勝豊や従兄弟の柴田勝政を出陣させ、6月18日には近江長浜(滋賀県長浜市)まで進出させた が、その時既に光秀は秀吉によって討滅させられた後であった。 徳川家康は、甲州征伐の際に駿河を拝領した礼を述べるため武田旧臣の穴山信君(梅雪)を伴って5月29日に安土城に上って信長に面会し、信長の勧めにより京都や堺を遊覧中であった。堺では代官松井友閑や豪商達の饗応を受けていたが、6月2日の午前のうちに本能寺の変報を聞くと、上洛と称してすぐさま堺を出奔し、その日は近江信楽(滋賀県甲賀市)に宿泊した(家康と別行動を取った穴山梅雪は山城で土民に殺された)。3日朝、伊賀越えの道より伊賀に入り、領国三河への最短距離となる間道を抜けて伊勢加太(三重県亀山市)を通過して伊勢の白子(三重県鈴鹿市)から船に乗り、6月4日には三河の大浜(愛知県碧南市)に到着して本拠の岡崎城(愛知県岡崎市)にたどりついた。家康もまた光秀攻めをめざして熱田神宮(名古屋市熱田区)まで進んだが間に合わず、一転して甲斐・信濃攻めに着手し、短期間で領国を拡大させた(天正壬午の乱)。 滝川一益は上野厩橋城(群馬県前橋市)を本拠として北条氏と対峙しながら東国の新領土の経営に奮闘しており、変の報せが到着したのも大幅に遅れた。同じく旧武田領を支配していた織田家家臣のうち、河尻秀隆は甲斐に留まっていた(のちに本能寺の変を受けた武田遺臣らによる蜂起で敗死)。森長可は信濃におり、のちに森氏本領の美濃へ脱出した。 織田信雄(信長の次男)は、本領の伊勢松ヶ島城(三重県松阪市)にいた。しかし、その兵の大部分は信孝の四国征討軍に従軍していたので、信雄の周囲には僅かな兵しかなく、伊勢より動くことはできなかった。 以上のように、本能寺の変の起こった当時、信長軍団の師団長ともいうべき諸将は光秀を除いて殆どが遠方に出払い、あるいは、戦争準備の最中であり、同盟者であった家康も僅かな供回りを連れての上方遊覧の途上にあって、畿内中心部は一種の戦力空白に近い状況であった。加えて、光秀の組下として行動をともにすることの多かった丹後の細川藤孝・忠興父子や大和の筒井順慶、摂津の池田恒興、中川清秀、高山右近らは国元で中国攻めの軍を準備中であった。 本能寺の変報が各地に伝えられると共に、光秀に与同する者も現れたが、日和見的な態度をとる者も多かった。こうした情勢は、しばしば織田方諸将の行動を牽制させることともなっていた。
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