変の直後とは? わかりやすく解説

変の直後

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/28 05:02 UTC 版)

桜田門外の変」の記事における「変の直後」の解説

当時公式記録としては、「井伊直弼急病発し暫く闘病急遽相続願い提出受理されたのちに病死した」となっている。これは譜代筆頭である井伊家御家断絶と、それにより誘発される水戸藩への敵討ち防ぎまた、暗殺され直弼自身によってすでに重い処分受けていた水戸藩へさらに制裁御家断絶など)を加えることへの水戸藩士反発、といった争乱激化を防ぐための、老中安藤信正残され幕府首脳による破格配慮であった井伊家菩提寺豪徳寺にある墓碑に、命日が「三月二十八日」と刻まれているのはこのためである。これによって直弼の子・愛麿(井伊直憲)による跡目相続認められ井伊家取り潰し免れた直弼の死を秘匿するため、存命装って直弼の名で桜田門外にて負傷した旨の届け幕府提出され公辺内分の手続き)、将軍家家茂)からは直弼への見舞品として大量薬用御種人蔘などが藩邸届けられている。これに倣い諸大名からも続々見舞い使者訪れたが、その中には藩主徳川慶篤使者として当の水戸藩の者もおり、彦根藩士達の憎悪満ちた視線の中で重役応接受けた井伊家飛び地であった世田谷東京都世田谷区)の代官務めた大場家記録によると、表向き闘病中とされていた直弼のために、大場家では家人病気平癒祈願行なっている。その後約2か月間、幕府側は直弼の死を公表しなかった。 しかし、襲撃後現場には後続大名駕籠続々通りかかり、鮮血まみれた多く人々目撃されており、大老暗殺はただちに江戸市中知れ渡った斬り合いは既に終わったにもかかわらず天気回復した事変当日午後から夕方には、見物人桜田門付近ぬかるみの道に群れ成した直弼強権と、襲撃受けた際の彦根藩士の狼狽ぶりは好対照で、「井伊掃部頭(いいかもんのかみ)」をもじって「いい鴨を網でとらずに駕籠でとり」などと市井揶揄された。また、首を取られたにもかかわらず病臥と言い繕うことを皮肉った倹約いらずの御病人」「遺言は尻でなさるや御大病」「人参で首をつげとの御沙汰かな」などの川柳相次いだ事件直後市中状況をよみ上げたちょぼくれあほだら経採集されている(あほだら経の項を参照)。

※この「変の直後」の解説は、「桜田門外の変」の解説の一部です。
「変の直後」を含む「桜田門外の変」の記事については、「桜田門外の変」の概要を参照ください。

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