変の影響
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斯波氏没落後、足利義詮はすぐにその領国である若狭・越前・越中・摂津などの守護職を没収し、幕府の御料所となし、奉行人を派遣して、寺社本所領の返付や半済の停止を執行した。これにより義詮は有力守護権力を抑制するとともに公家・寺社からの信頼を取り戻し、室町幕府の安定性を大いに高めることとなった。正平22年/貞治6年には仁木義長も幕府に帰参し、斯波義将も許されて上洛(越中守護に復帰)、さらに讃岐に下っていた細川頼之(清氏の従兄弟)も上洛し、将軍義詮の下に有力守護らが従う足利幕府体制が確立する。しかし義詮はこの後、にわかに発病し、12月に没した(享年38)。遺言により、管領細川頼之が新将軍義満を支える体制となった(この出来事をもって『太平記』の物語は終焉する)。 しかし、義満・頼之による守護抑制政策は、次第に反頼之派を増やすこととなり、頼之の専断は義詮政権における高経の権勢の再来のようになる。結局は高経が貞治の変で失脚したのと同様、康暦の政変によって頼之は罷免・出家を余儀なくされ、代わって高経の子・義将が管領となる。義満が政変を利用して将軍権力を強めていくのも父の貞治の変と同工異曲であり、やがて土岐氏・山名氏・大内氏を討った義満は、室町幕府の最盛期を築くこととなる。
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変の影響
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/08 09:46 UTC 版)
姉小路の変節はまだ広く知られておらず、破約攘夷派として暗殺されたと捉えられていた。姉小路殺害の翌日には、姉小路の同志とみられた三条実美を名指しで脅迫する張り紙が、三条邸および学習院の門に貼られていた。これにより姉小路殺害は薩摩藩の仕業であるという見方が流布された。一方でこの張り紙は姉小路に影響されつつあった三条へのプレッシャーともなったという見解もある。さらに田中新兵衛の自刃により、薩摩藩の立場はますます危うくなる。 疑念の目で見られた薩摩藩は禁裏九門の一つである乾御門警備の任から外され、さらに薩摩藩関係者の九門内往来が禁じられるなど次第に京都政局から排除されていく。このため薩摩藩およびその後ろ盾であった青蓮院宮尊融親王の発言力も大きく後退した。こうして朔平門外の変は、結果的に姉小路という旗手を失ったはずの破約攘夷派勢力が、むしろ増長していくきっかけとなったのである。青蓮院宮までが6月5日には攘夷の先鋒となることを誓願し、破約攘夷派への迎合を見せるなど保身に走るようになった。一方で6月11日には薩摩藩への嫌疑は冤罪とされ、御所の九門出入りが許されるようになった。 こうして孝明天皇と公武合体派の連絡が遮断された結果、三条らに牛耳られた朝廷では攘夷親征・大和行幸計画が企図され、天皇にとって本意ではない勅書が濫発されることになる。危機を感じた孝明天皇は、5月29日に重ねて島津久光に対し「上京して姦人(三条らを指す)を排除せよ」との密勅を下すが、久光は生麦事件の賠償問題がこじれてイギリスと係争中だったために、鹿児島を離れられなかった(7月2日に薩英戦争が勃発)。そこで上京できない島津久光に代わり、薩摩藩士高崎正風と青蓮院宮を中心に、孝明天皇の周囲から破約攘夷派を排除する計画が立てられ、京都守護職を務める会津藩を巻き込んで八月十八日の政変につながっていくことになる。
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