地租軽減運動と地租増徴問題
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地租改正によって明治政府は秩禄処分や常備軍設置、殖産興業の行うための安定した財源を確保したものの、農民の負担は従来と変わらず、むしろ小規模農家の没落による小作農への没落と一部富農による地主制の形成、小作農の子弟や離農者の低賃金労働者化の促進など、国家及び一部階層の資本蓄積と低廉な労働者・小作農形成によって日本の資本主義発展の基礎を築いた。この傾向は松方財政によるいわゆる「松方デフレ」によって一層進むことになった。 だが、一方で農民側による地租軽減を求める動きも続いていた。地租改正反対のための合法的闘争に報徳思想の普及で知られる岡田良一郎や後に自由党に属して衆議院議長に昇った杉田定一が代表者として加わっていた事で知られるように、様々な政治的立場からこれに賛同する人々も多かった。特に自由民権運動の活動家と農民との連携の過程で地租減免が議会開設・条約改正とともに唱えられるようになった。1877年の立志社建白書や1881年に結成された自由党綱領でも掲げられており、次第に自由民権運動の担い手を士族から地主を中心とした農民層に移行させる一因ともなった。だが、自由民権運動の衰退とともに運動も低調期に入る。 1890年の帝国議会設置後、民党側は「経費節減・民力休養」を掲げて政府の財政政策を批判して地租軽減を唱えた。だが、具体的な地租軽減方法を巡って、地租改正の過程で小作の利益を代表する立場を採る議員が「税率軽減方式(税率引下)」を求め、地主の利益を代表する議員が「地価軽減方式(地価引下)」と唱えたことから分裂した。だが、政府と貴族院はこれに強く反対し、地租軽減は進まなかった。そのうちに日清戦争の勃発とその後の生活の向上に伴う米の需要拡大に伴う米価高騰によって地主の地租負担は相対的に軽減されたこともあり、一旦は地租軽減運動は落ち着きを見せる。だが、戦後ロシアなどとの対抗上、政府は急速な軍備拡張を図るようになり、財政難に陥るようになった。 1897年に第2次松方内閣が六六艦隊計画などに必要とされる予算確保のため、地租を60%引き上げる(2.5%→4%)地租増徴案を提出しようとした。ところが、松方内閣の与党であった進歩党が野党自由党と結んでこれに反対して連立を離脱、内閣不信任案を突きつけられた松方内閣は衆議院解散に踏み切るが、選挙後の政権運営の目途が立たなかったこともあり、その直後に内閣総辞職に追い込まれる(1897年12月25日)。続いて成立した第3次伊藤内閣は自由・進歩両党との連立交渉が不調に終わり、直後の第5回衆議院議員総選挙(1898年3月15日投開票)で自由・進歩両党が引き続き多数を確保したため、少数与党で議会に臨む。内閣は地租増徴法案を提出したが、衆議院は大差でこれを否決、伊藤内閣はまたしても衆議院解散に打って出るが(6月10日)、直後に自由・進歩両党は合同して憲政党を結成、藩閥側では政権維持の目途が立たなくなったことから、憲政党に大命降下、第1次大隈内閣が成立し、地租増徴のめどは立たなくなる。一方同じころ、これらの政争と並行して、渋沢栄一や田口卯吉が商工業者に対する営業税などの税率の高さに対して地租の税率は低すぎるとして増徴を支持する意見を唱え、帝国議会に地租増徴の請願を提出。これに対して、谷干城元農商務大臣を中心に反論を唱え、「地租増徴反対同盟」を結成するなど、世論も大きく割れることになった。 ところが、憲政党は第6回衆議院議員総選挙(8月10日投開票)で圧倒的多数を占めたものの、内部闘争でわずか2ヶ月で自由党系憲政党と進歩党系憲政本党に分裂、内閣も倒れた。その後を継いだ第2次山縣内閣は、自由党系憲政党を与党に迎えるべく政策協定を行い、その結果、地価軽減方式の流れを汲む地価計算方法の見直しによる地域間格差の是正と1899年度からの5年間限定にすることを条件に地租の32%引上げ(2.5%→3.3%)にすることで合意した。1989年12月27日、地租増徴法案は成立。1899年4月より5年間限定で地租が3.3%(市街地では5%)に引き上げられた。 この地租増徴は5年限定であったため、本来であれば1904年4月1日には税率に元に戻す予定になっていた。ところがその直前の1904年2月に日露戦争が勃発し、戦費調達のための非常特別税法が成立すると、4月1日に3.3%から2.5%に戻すところを逆に4.3%(市街地では8%、郡部宅地では6%)に引き上げられ、更に1905年1月1日からは5.5%(市街地では20%、郡部宅地では8%)に再度引き上げられたのである。臨時特別税法は平和回復の翌年までという条件が付けられていたが、ポーツマス条約締結の翌年である1906年に廃止期限直前に臨時特別税法からこの規定を無くすことに成功して、事実上の恒久税制化されようとしたのである。
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