地主と農業専門家
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「トマス・クック (初代レスター伯爵、1754-1842)」の記事における「地主と農業専門家」の解説
クックは地主としてその荘園で暮らす人々の生活の質を改善するのが権利と道徳的義務だと固く信じていた。地主と小作人の役割は18世紀までにはっきりと設定されていた。地主は畑、道路、建物を提供し、小作人は種と道具を出して手作業労働を提供することだった。クックの荘園は相続した時に農場が54個あり、優れた生産性を上げていた。しかし、大叔父がホウカムホールを建設した結果としてかなりの負債があり、利益は年間4,000ポンドに過ぎなかった。荘園を相続する前に雇われていた人々の扱いに幾らか難しいものがあり、クックの叔父が指名した執事のラルフ・コールドウェルが1782年に引退した時、クックは1816年まで彼の後任指名に失敗した。その後任者は以前にチェスターフィールド卿の荘園執事として雇われていたスコットランド人のフランシス・ブレイキーだった。ブレイキーは農園の働きが悪いところやもっと良くできるところに密な注意を払ったが、クックとの間がうまく行かないことが多かった。クックは農業以外のことで財務的な感覚に欠けており、ある場合にはマンチェスターに近い土地全てを売ってしまった。これにブレイキーが気付いたのは20年以上経ってからであり、新しい所有者から鉱業権について問い合わせがあったときのことだった。ブレイキーはマンチェスターに行ってその売買を仲介した弁護士と会い、お粗末に書かれた権利委譲書を見つけただけでなく、売却された土地全てに多くの石炭が埋蔵されていたことも発見した。 18世紀初期、農地は開放耕地制度 (Open field system) (英語版) で運営されていた。これは通常過剰な詰め込みとなり、実験的な方法を試みるのを大変難しくするものだった。一方、囲い込み農園は質が高く、実験にも有益だったので、開放耕地の大きさよりもほぼ2倍の借地を耕作できる結果になった。この問題を複雑にしたのは、囲い込み農園の多くが帯状地に分割されていることであり、所有者が不明になるということだった。1776年から1816年、クックはその荘園に近い帯状地を急速に買収し、それを囲い込ませた。その多くはナポレオン戦争の間に生じており、穀物の価格が(すなわり農業の利益が)最大になった。クックは近くの荘園を所有していた"ターニップ"・タウンゼンド(ターニップは「蕪」あるいは俗語で「馬鹿」)の影響を受けていた。タウンゼンドは輪作を奨励し、農業の改良を進めていた。タウンゼンドの改良は囲い込みと共に泥灰土で肥やしたり、草を改善したりして、「100年前に行われていたのとは全く異なるやり方の畜産」になっていた。 クックは2つの分野で大きな改良を行った。すなわち草と畜産である。草にカモガヤ、餌にムラサキウマゴヤシの利用を始め、ホウカム荘園を相続した時には700頭だった羊が、1793年には2,400頭にまでなっていた。畜産には様々な種の牝牛の牛乳を比較したことも含まれていた。またスコットランド産の蕪を初めて植えており、これは「ノーフォークの種と比べて口当たりが良く栄養豊富だがそれほど水分が無い良質の料理用野菜」である。クックの主要な実験領域は、羊の選抜育種だった。この地域で最も普通にある羊はノーフォーク・ホーンであり、足が長く、成長が遅かった。クックはイングリッシュ・レスターの導入を推進する者となり、この種は蕪を食べさせると成長が早く優れていたことで注目された種だった。クックはこの2種を掛け合わせ、その結果生まれた種は大変飼いならしやすく、ノーフォークの純血種にくらべて優れていた。クックは牛も飼育して畑を耕すには馬の代わりに牡牛を使い、くびきではなくハーネスを初めて使い、1837年にはその牡牛で賞を受賞した。 クックは間もなく羊の毛を刈ること、競合および貴族との契約を通じて、その新しい考えと種を広めた。羊の毛を刈ることは、当初は地元農夫の小さな行事だったが、それが間もなく200人分の正餐となり、1821年には300人、それから間もなく700人にまで増え、1819年には在イギリスアメリカ合衆国大使リチャード・ラッシュまでも出席し、フランス領事やサセックス公も出席した。1793年には農業評議会が結成され、クックは指導的な農業専門家として「常任評議員」30人の1人となった。1805年にはその副議長となった。この評議会はイギリスの大半について一連のカウンティリポートを出版し、国内の様々な場所で新しい農業手法が行われていることを報告した。 クックは「ノーフォーク農業の真の英雄」と呼ばれた。クックの土地は痩せており、ある批評家が「薄い砂質の土壌はウサギをくびきにつないで、ポケットナイフで鋤き返す必要がある」と言ったと言われている事実もあった。しかし、学者や著作家はクックの重要さを議論していた。19世紀から20世紀初めの歴史家達はイギリス農業革命にとって重要人物と見ており、4年輪作を発明した者としている。ナオミ・リッチズ (1983-) (英語版) はこれを「間違い」と言っている。R・A・C・パーカー (1927-2001) (英語版) は「経済史概観」の中で「彼が導入したと考えられる革新の多くは、ノーフォークの先任者に帰せられるべきだ」とのべた。しかし、「イングランドの農業技術の進歩にクック自身がかなり貢献したことを否定するものではない」とも言っている。
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