土曜夕方枠へ - ゴールデンタイム復帰とは? わかりやすく解説

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土曜夕方枠へ - ゴールデンタイム復帰

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 21:29 UTC 版)

全日本プロレス中継」の記事における「土曜夕方枠へ - ゴールデンタイム復帰」の解説

1979年4月7日からは土曜17:30 - 18:24ローカルセールス枠変更されローカル枠変更初回放送前日4月6日秋田県立体育館行われた「'79チャンピオン・カーニバル優勝決定戦鶴田VSアブドーラ・ザ・ブッチャー〉の録画中継)、同時に日本プロレス中継』から続いてきたスポンサー横幕提供スポンサーによる読み上げなくなり基本的に録画中継変更された。当時日本テレビ17時台視聴率合格ラインは、ゴールデンタイム放送されていた『国際プロレスアワー』と同様の7〜8%に設定していた。 この時期から、スタン・ハンセンハルク・ホーガンなどのWWF勢の活躍や、初代タイガーマスク登場によって新日本人気がさらに上昇した1981年には日本テレビにおけるインターナショナル・ヘビー級選手権試合放送も『日本プロレス中継打ち切り以来9年ぶりに復活した同時にブッチャー引き抜いた新日本への報復で、全日本日本テレビシンハンセン引き抜き工作開始し全日本最終的に両者引き抜いた。 しかし、土曜夕方枠移動後は全日本経営悪化し日本テレビから役員送り込まれ松根光雄が代表取締役社長となると同時に馬場代表取締役会長退いた上で経営立て直し急務となった。これにより、マッチメイク見直しが行われることと同時に現場責任者佐藤昭雄指名鶴田天龍2人二枚看板とし、年功序列マッチメイクもやめ、越中詩郎三沢光晴国際プロレスから移籍した冬木弘道などの若手育成努め1983年2月ザ・グレート・カブキ登場で、「'83エキサイト・シリーズ」は2月シリーズ初の黒字達成した1980年代前半には正月や『土曜トップスペシャル』のにおいて、大規模大会においてゴールデンタイム特番数回組まれたことがあり、生中継放送されたこともあった。『土曜トップスペシャル』では、1983年2月26日ハーリー・レイスVS馬場PWFヘビー級王座戦(2月11日のセントルイス・チェッカードームからの録画放送馬場奪回成功)が16.4%、1984年2月23日ニック・ボックウィンクルVS鶴田AWA世界ヘビー級王座戦(蔵前国技館からの生中継鶴田奪取成功)が14.9%、同年3月24日馬場VSハンセンPWF戦および鶴田VSボックウィンクルのAWA世界戦蔵前国技館からの生中継)が16.5%と高視聴率記録している。 その一方1980年代中期には全日本ジャパンプロレスとの業務提携や、木村参戦に伴う国際血盟軍結成によって、日本人同士抗争という新機軸盛り込んだことで、現場は再び馬場仕切るようになり、ジャパンプロレス勢の全日本参戦ロード・ウォリアーズ登場に伴い新日本や『ワールドプロレスリング』は新日本における日本人大量離脱WWFとの提携解消テレビ朝日不振人気視聴率低下していき、同時に全日本人気上昇していった。 一方で1985年3月には、新日本一連の引き抜き戦争報復としてブルーザー・ブロディ引き抜いた同時にハンセン&ブロディミラクルパワーコンビ解消したものの、全日本人気揺らぐことはなかった。同時期に前年失踪した阿修羅・原が、テレビ中継が行われていた会場で、長州力襲撃する行動に出る。長州対す襲撃として、最初ターゲット1985年4月3日開催山形県体育館行われた長州VS石川敬士定め石川に対してサソリ固めをかけた長州ウェスタンブーツ殴打2度目ターゲットとして、同年4月19日開催神戸ワールド記念ホール行われた長州&アニマル浜口VSディック・スレーター&ボブ・ブラウン照準定め試合終了後乱入してまたもや長州挑発同年4月24日開催横浜文化体育館にて、天龍タッグ組み長州&浜口対戦したが、天龍椅子攻撃した後にそのまま試合放棄天龍は、原のピンチヒッター大熊元司指名)。大熊も、同年5月19日開催北海道網走市総合体育館大会で原と対戦したが、後に「ヒットマン・ラリアット」と呼ばれることになるラリアット秒殺された。これらの模様はいずれ録画中継され、原は「ヒットマン」と呼ばれることになる。 この時期からゴールデンタイム復帰見据えた動きみられるようになり、1985年3月9日には、前日行われた千葉県船橋市体育館大会レギュラーにて録画中継した他(ウォリアーズVS浜口&キラー・カーンなどを放送)、両国国技館におけるプロレスこけら落とし興行鶴田&天龍VSウォリアーズインターナショナル・タッグ王座戦と長州&谷津嘉章VSブロディ&キラー・ブルックスなどを放送)を『土曜トップスペシャル』にて実況生中継した。当日視聴率は、船橋大会が13.6%と視聴率合格ライン大幅に突破したが、両国大会は10.9%に終わった同年6月21日には、1977年5月14日開催の「第4回チャンピオン・カーニバル以来8年ぶりに日本武道館大会開催。その模様は翌6月22日レギュラーと『土曜トップスペシャル』にて録画中継された。 1985年8月日本テレビ本番組を10月19日より土曜19:00 - 19:546年半ぶりにゴールデンタイム復帰させることを発表した発表記者会見には、全日本勢だけでなく長州始めとしたジャパン勢も共に出席日本人抗争ゴールデン復帰切り札売り物にしようとした思惑窺えた。しかし、ゴールデンタイムへの復帰は必ずしも長州らの参戦決め手となったわけではなく前述の『土曜トップスペシャル』での実績試金石になったと、当時番組プロデューサーだった日本テレビ原章語っている。 ゴールデン復活第1回は、1985年10月19日行われた「ワールド・チャンピオン・カーニバル」第12戦である後楽園ホールからの生中継であった。この時期から本番組は『ワールドプロレスリング』よりも視聴率上回るようになっていた他、日本テレビ系新局開局などによる放映権移行などで、同時ネット局土曜20時台時代より多くなっていた。 ゴールデンタイム復帰後は、翌年1986年輪島大士デビューさせ、1986年11月1日石川県七尾市総合市民体育館から生中継され輪島デビュー戦は17.1%という視聴率記録した輪島ジョン・テンタ大相撲出身者全日本入団したことが引き金となり、同年11月日本相撲協会から全日本対し両国国技館無期限使用禁止通告したが、全日本日本武道館都内もう一つのビッグマッチ会場としていたため影響は受けなかった。同年4月にはカルガリーハリケーンズ試合放送解禁された。ブッチャーブロディ1987年全日本復帰したが、同年にはジャパンプロレス分裂し長州など一部選手新日本復帰した1987年4月以降は『ワールドプロレスリング』が『ギブUPまで待てない!!ワールドプロレスリング』にリニューアルされ、録画中継移行したことに伴い本番組が唯一実況生中継されるプロレス中継番組となったが、1988年3月26日の「'88チャンピオン・カーニバル開幕戦である茨城県古河市立体育館大会生中継以って土曜19時枠放送並びに生中継終了した

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