土曜夕方枠へ - ゴールデンタイム復帰
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「全日本プロレス中継」の記事における「土曜夕方枠へ - ゴールデンタイム復帰」の解説
1979年4月7日からは土曜17:30 - 18:24のローカルセールス枠に変更され(ローカル枠変更初回の放送は前日4月6日に秋田県立体育館で行われた「'79チャンピオン・カーニバル」優勝決定戦〈鶴田VSアブドーラ・ザ・ブッチャー〉の録画中継)、同時に『日本プロレス中継』から続いてきたスポンサー付横幕や提供スポンサーによる読み上げがなくなり、基本的に録画中継に変更された。当時の日本テレビの17時台枠の視聴率の合格ラインは、ゴールデンタイムで放送されていた『国際プロレスアワー』と同様の7〜8%に設定していた。 この時期から、スタン・ハンセンやハルク・ホーガンなどのWWF勢の活躍や、初代タイガーマスクの登場によって新日本の人気がさらに上昇した。1981年には日本テレビにおけるインターナショナル・ヘビー級選手権試合の放送も『日本プロレス中継』打ち切り以来9年ぶりに復活した。同時にブッチャーを引き抜いた新日本への報復で、全日本と日本テレビはシンとハンセンの引き抜き工作を開始し、全日本は最終的に両者を引き抜いた。 しかし、土曜夕方枠へ移動後は全日本の経営が悪化し、日本テレビから役員が送り込まれ、松根光雄が代表取締役社長となると同時に馬場は代表取締役会長へ退いた上で、経営の立て直しが急務となった。これにより、マッチメイクの見直しが行われることと同時に、現場責任者に佐藤昭雄を指名。鶴田と天龍の2人を二枚看板とし、年功序列のマッチメイクもやめ、越中詩郎や三沢光晴、国際プロレスから移籍した冬木弘道などの若手育成に努め、1983年2月のザ・グレート・カブキ登場で、「'83エキサイト・シリーズ」は2月シリーズ初の黒字を達成した。 1980年代前半には正月や『土曜トップスペシャル』の枠において、大規模大会においてゴールデンタイムの特番が数回組まれたことがあり、生中継で放送されたこともあった。『土曜トップスペシャル』では、1983年2月26日のハーリー・レイスVS馬場のPWFヘビー級王座戦(2月11日のセントルイス・チェッカードームからの録画放送。馬場が奪回に成功)が16.4%、1984年2月23日のニック・ボックウィンクルVS鶴田のAWA世界ヘビー級王座戦(蔵前国技館からの生中継。鶴田が奪取に成功)が14.9%、同年3月24日の馬場VSハンセンのPWF戦および鶴田VSボックウィンクルのAWA世界戦(蔵前国技館からの生中継)が16.5%と高視聴率を記録している。 その一方、1980年代中期には全日本とジャパンプロレスとの業務提携や、木村の参戦に伴う国際血盟軍結成によって、日本人同士の抗争という新機軸も盛り込んだことで、現場は再び馬場が仕切るようになり、ジャパンプロレス勢の全日本参戦やロード・ウォリアーズ登場に伴い、新日本や『ワールドプロレスリング』は新日本における日本人大量離脱やWWFとの提携解消、テレビ朝日の不振で人気や視聴率が低下していき、同時に全日本の人気も上昇していった。 一方で1985年3月には、新日本が一連の引き抜き戦争の報復としてブルーザー・ブロディを引き抜いたと同時に、ハンセン&ブロディのミラクルパワーコンビが解消したものの、全日本の人気が揺らぐことはなかった。同時期には前年に失踪した阿修羅・原が、テレビ中継が行われていた会場で、長州力を襲撃する行動に出る。長州に対する襲撃として、最初のターゲットを1985年4月3日開催の山形県体育館で行われた長州VS石川敬士に定め、石川に対してサソリ固めをかけた長州をウェスタンブーツで殴打。2度目のターゲットとして、同年4月19日開催の神戸ワールド記念ホールで行われた長州&アニマル浜口VSディック・スレーター&ボブ・ブラウンに照準を定め、試合終了後に乱入してまたもや長州を挑発。同年4月24日開催の横浜文化体育館にて、天龍とタッグを組み、長州&浜口と対戦したが、天龍を椅子で攻撃した後にそのまま試合放棄(天龍は、原のピンチヒッターに大熊元司を指名)。大熊も、同年5月19日開催の北海道網走市民総合体育館大会で原と対戦したが、後に「ヒットマン・ラリアット」と呼ばれることになるラリアットで秒殺された。これらの模様はいずれも録画中継され、原は「ヒットマン」と呼ばれることになる。 この時期からゴールデンタイム復帰を見据えた動きがみられるようになり、1985年3月9日には、前日に行われた千葉県船橋市民体育館大会をレギュラー枠にて録画中継した他(ウォリアーズVS浜口&キラー・カーンなどを放送)、両国国技館におけるプロレスこけら落とし興行(鶴田&天龍VSウォリアーズのインターナショナル・タッグ王座戦と長州&谷津嘉章VSブロディ&キラー・ブルックスなどを放送)を『土曜トップスペシャル』にて実況生中継した。当日の視聴率は、船橋大会が13.6%と視聴率の合格ラインを大幅に突破したが、両国大会は10.9%に終わった。同年6月21日には、1977年5月14日開催の「第4回チャンピオン・カーニバル」以来8年ぶりに日本武道館大会を開催。その模様は翌6月22日にレギュラー枠と『土曜トップスペシャル』にて録画中継された。 1985年8月、日本テレビは本番組を10月19日より土曜19:00 - 19:54枠で6年半ぶりにゴールデンタイムへ復帰させることを発表した。発表記者会見には、全日本勢だけでなく長州を始めとしたジャパン勢も共に出席。日本人抗争をゴールデン復帰の切り札や売り物にしようとした思惑が窺えた。しかし、ゴールデンタイムへの復帰は必ずしも長州らの参戦が決め手となったわけではなく、前述の『土曜トップスペシャル』での実績が試金石になったと、当時の番組プロデューサーだった日本テレビの原章は語っている。 ゴールデン復活第1回は、1985年10月19日に行われた「ワールド・チャンピオン・カーニバル」第12戦である後楽園ホールからの生中継であった。この時期から本番組は『ワールドプロレスリング』よりも視聴率で上回るようになっていた他、日本テレビ系新局開局などによる放映権移行などで、同時ネット局は土曜20時台時代よりも多くなっていた。 ゴールデンタイムに復帰後は、翌年の1986年に輪島大士をデビューさせ、1986年11月1日に石川県七尾市総合市民体育館から生中継された輪島のデビュー戦は17.1%という視聴率を記録した。輪島やジョン・テンタの大相撲出身者が全日本に入団したことが引き金となり、同年11月に日本相撲協会から全日本に対し両国国技館の無期限使用禁止を通告したが、全日本は日本武道館を都内のもう一つのビッグマッチ会場としていたため影響は受けなかった。同年4月にはカルガリーハリケーンズの試合の放送が解禁された。ブッチャーとブロディも1987年に全日本へ復帰したが、同年にはジャパンプロレスも分裂し、長州など一部選手が新日本へ復帰した。 1987年4月以降は『ワールドプロレスリング』が『ギブUPまで待てない!!ワールドプロレスリング』にリニューアルされ、録画中継に移行したことに伴い、本番組が唯一実況生中継されるプロレス中継番組となったが、1988年3月26日の「'88チャンピオン・カーニバル」開幕戦である茨城県古河市立体育館大会の生中継を以って、土曜19時枠の放送並びに生中継も終了した。
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