国防相時代
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「ヴェルナー・フォン・ブロンベルク」の記事における「国防相時代」の解説
アドルフ・ヒトラーを首相に任命する事を決意したヒンデンブルク大統領は、1933年1月29日にジュネーヴのブロンベルクをベルリンに呼び戻し、1月30日にヒトラーを首相に任命するより数時間先の午前9時に新内閣の国防大臣に任命した。内閣成立前の閣僚の任命はヴァイマル憲法的には違憲である。同日午前11時15分頃にヒトラーが首相に任じられた。 ブロンベルクには保守派によるヒトラーの「囲い込み」と「飼い慣らし」が期待されていたが、ブロンベルクにその意思はなく、ヒトラーの信頼を得ようと忠勤に励んだ。反ヒトラー的な前国防相クルト・フォン・シュライヒャーの取り巻きを国防省から排除することに努めた。国防省官房長フェルディナント・フォン・ブレドウを罷免し、ヴァルター・フォン・ライヒェナウを代わりの官房長に据えた。つづいて兵務局長をヴィルヘルム・アダムからルートヴィヒ・ベックに代えた。さらに国防軍局長オイゲン・オットを日本に飛ばし、代わってフリードリヒ・フロムを国防軍局長に任じた。陸軍総司令官クルト・フォン・ハンマーシュタイン=エクヴォルトも6月末頃までに軍内で孤立化させ、1934年1月には辞職に追いやり、ヴェルナー・フォン・フリッチュに代えた(当初ブロンベルクはよりナチス寄りなライヒェナウを陸軍総司令官にしたかったが、反発が強すぎてフリッチュにした)。 ヒトラーもブロンベルクの忠勤に報い、軍の権威や権限の拡大に努めた。1933年4月4日には秘密再軍備に向けた国防会議を創設。さらに同年7月20日には国防軍法を制定して、軍に対しては普通裁判所の司法権は及ばない旨を規定し、また国防法を改正して郷党的規定を廃し、国防軍が唯一の国防の担い手であることを定めた。 しかしながらナチ党の突撃隊は、政権獲得時には400万人もの隊員数(うち武装兵士50万人)を有し、第二の軍隊と呼ばれるようになっていた。国防軍から反発を受けており、ブロンベルクは、ヒトラーに明確な裁定を求めた。1934年2月にヒトラーの仲介で国防省においてブロンベルクとレームは一度は協定を結んだが、突撃隊が協定を守る様子はなかった。突撃隊謀反のうわさが流れるとヒトラーはヒンデンブルク大統領やブロンベルクから突撃隊に処置をとることを要求された。ヒトラーは1934年6月30日から7月2日にかけて長いナイフの夜と呼ばれる粛清を行った。この時、退役将軍の二人クルト・フォン・シュライヒャーとフェルディナント・フォン・ブレドウ が殺害された。しかし、ブロンベルクは国防大臣として何の抗議もしなかった。ブロンベルクは7月3日の閣議で軍を代表してヒトラーに賛辞を贈っている。 1934年8月2日にヒンデンブルク大統領が死去した。ブロンベルクは同日中に陸軍総司令官ヴェルナー・フォン・フリッチュと海軍総司令官エーリヒ・レーダーとともに軍を代表してヒトラーへの忠誠宣誓を行った。そしてこれに倣ってドイツ中で全ドイツ軍人がヒトラーに忠誠宣誓を行った。 その後もユダヤ系ドイツ人の国防軍からの追放に反対する将校団の抵抗を押さえ込んだり、ヒトラーの45歳の誕生日を記念して、国防軍リスト連隊ミュンヘン兵舎を「アドルフ・ヒトラー兵舎」と命名させるなど、ヒトラーに忠実だった。彼はもともと柔和な性格として「ゴムのライオン」と渾名されていたが、やがて「ヒトラー・ユーゲント、クヴェクス」と渾名されるようになった。クヴェクスとは映画『ヒトラー青年クヴェックス(ドイツ語版)』の主人公であるヒトラー・ユーゲントの名前である。 1935年3月16日にヒトラーはヴェルサイユ条約のドイツ軍備制限条項の破棄を宣言した。旧軍の伝統を本格的に復活させた。「国防省」も「戦争省 (Reichskriegsministerium, 英語:Ministry of War)」に改名された(本項においては以後も国防省を使用する)。国防大臣から陸軍大臣への降格という説もあるが、一派的には改名である。ヒトラーは同年、彼の忠誠に対して国防三軍の指揮権を委任することで報いた。更に1936年には陸軍元帥に昇格、1937年1月30日には黄金ナチ党員バッジを与えた。 再軍備にあたってブロンベルクは伝統的な立場にこだわらず、騎兵より戦車の役割を評価していた。戦術面では東プロイセン時代の演習の経験をいかして防御の利点を積極的に認め、攻撃の補助手段として活用した。ハンマーシュタインの攻撃型の原理に修正を加えた。
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