国郡制定前の歴史とは? わかりやすく解説

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国郡制定前の歴史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 16:49 UTC 版)

根室国」の記事における「国郡制定前の歴史」の解説

飛鳥時代斉明天皇のころ阿倍比羅夫樺太征討した粛慎『日本書紀』)は、当時根室国域にも及んでいたオホーツク文化圏に属する人たちと言われている。オホーツク文化平安時代前期ころ擦文文化影響強く受けたトビニタイ文化へと移行し鎌倉時代ころまで続いた鎌倉時代から室町時代にかけて、日の本呼ばれる蝦夷(えぞ)が根室国域を含む北海道太平洋岸や千島国域におり、蝦夷沙汰職蝦夷管領はこれを統括していた(『諏訪大明神絵詞』)。 戦国時代から江戸時代にかけて、蝦夷の人々によって根室半島中心にチャシ群が築かれている。 江戸時代に入ると、1615年元和元年)から1621年元和7年)ころにかけて、メナシ地方現在の目梨郡羅臼町標津町周辺)の蝦夷アイヌ)が、100隻近い舟にの羽やラッコ毛皮などを積み松前行き交易(ウィマム)したとの記録松前藩の「新羅之記録」に記載されている。また根室国域には松前藩によって松前藩家臣知行地としてネモロ場所が開かれていた。藩の出先機関機能兼ね備えた運上屋では、撫育政策としてオムシャなども行われた当初アッケシ場所に含まれたがキイタップ場所を経てネモロ場所となる。場所に関する制度詳細商場(場所)知行制および場所請負制の項を、漁場状況については北海道におけるニシン漁史参照江戸時代以前から明治時代初頭交通について陸上交通は、釧路国厚岸郡琵琶瀬から根釧国境越え根室郡初田牛(現根室市)までの7里28町(30.5.km)、初田牛から花咲郡落石(現根室市)までの3里26町(14.6.km)、落石から根室郡根室(現根室市)までの6里2町(23.8.km)など沿岸部沿いに渡島国箱館から千島国方面に至る道の途上にあたる東西を結ぶ陸路があった。万延元年には根室場所請負人藤野喜兵衛幕命を受け昆布盛番屋花咲郡昆布盛)の西方から北の根室郡厚別(あつしべつ、現在の野付郡別海町奥行)に向かう6里17町(25.4km)を新規に開削しオンネトウ渡し場長さ14間(25.5m)の橋梁かけられた。これにより根室会所から厚別止宿所に至る9里10町(36.4km)の根室-厚別間道路通じようになった。このほか文化年間にはそれまで蝦夷の人々利用していた道を標津からチライワツタリに至る8里(31.4km)、チライワツタリから根北国境のルチシ峠を越え北見国斜里郡ワツカオイに至る8里32町(34.9km)など3区間に分け根室釧路など三場所の蝦夷請負わせ改修した斜里越開削されている。また、釧路国厚岸郡姉別(現浜中町)から根釧国境越え根室郡西別(昭和47年以後野付郡別海町別海地区)に至る川船6里(23.6km)余の経路もあった。根室国内の河川には藩政時代から廃使置県までの間7箇所渡船場数があり渡し船なども運行されていた。海上交通は、和人地畿内・千島国などとの間に北前船航路開かれ根室などにも寄航していた。このほか、釧路国厚岸郡姉別から根室郡根室まで海上9里(35.3km)余の航路根室郡根室から千島国国後郡泊まで海上16里(62.8.km)余の航路根室郡西別から野付郡野付まで6里(23.6km)余の航路野付郡野付から千島国国後郡泊まで海上4里(15.7.km)程の航路などが開かれていた。 18世紀には標津郡域にて養老牛温泉発見されている。寛政元年蝦夷アイヌ)の人々蜂起したクナシリ・メナシの戦い寛政蝦夷蜂起)が勃発しメナシ地方でも多く和人殺害された。後に乱の平定尽力したアイヌ首長お味方蝦夷)たちが松前に赴き、藩主にウィマムした。このとき彼らを題材とした夷酋列像描かれている。同年目梨郡域にて羅臼温泉発見された。寛政4年には漂流民・大黒屋光太夫磯吉小市根室死亡)の3名を伴いアダム・ラクスマン通商求め根室来航このころ近藤重蔵最上徳内などの幕吏によって北方探検盛んに行われ根室基地となっている。また、高田屋嘉兵衛によって航路運営がされるなど本格的な蝦夷地経営が行われた。 江戸時代後期根室国域は東蝦夷地属していた。南下政策強力に推し進めるロシア備え寛政11年東蝦夷地公議御料幕府直轄領)とされ、翌12年伊能忠敬沿岸部測量文政4年には一旦松前藩領に復したものの、1854年(安政元年)、マシュー・ペリー江戸湾再来し、日米和親条約締結されると、幕府対外政策の見直し迫られる安政2年蝦夷地も再び公議御料となり西別川古川河口からチャシコツここからシカルンナイまでを結んだ以北標津郡以北)には会津藩がホニコイに本営陣屋を、以南野付郡以南)は仙台藩根室出張陣屋を置き警固おこなったまた、安政3~4年ころ知床半島目梨郡域)の硫黄山噴火している。安政6年になると6藩分領にともない標津郡以北会津藩領、野付郡以南仙台藩領となったが、花咲郡域の島嶼部歯舞群島色丹島)は公議御料仙台藩警固地)のままであった

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