国都建設計画第一期事業
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国都建設計画第一期事業は、30年後の予想人口50万人の都市を目指して、国務院国都建設局により1933年(大同2年)3月から1937年(康徳4年)12月までの5ヵ年計画、国庫特別会計3400万圓を投じて実施された。 「国都建設計画法」(大同2年4月19日教令第24号)第2条により、新京特別市の区域(約200km2)を以って国都建設計画区域とされた。それに先立って「国都建設事業区域ニ関スル件」(大同2年1月24日国務院指令第3号)により、国都建設事業区域は下記のように指定されている。 国都建設計画区域(特別市区域) 約200km2 近郊隣接地 約100km2 国都建設事業区域 約100km2 実際事業除外区域 南満鉄道附属地 約5km2 中東鉄路附属地 約4km2 将来逐次整理区域 商埠地 約4km2 長春縣城内 約8km2 国都建設計画事業面積 約79km2 満鉄附属地及び寛城子附属地は、行政上その性質を異にするため「実際事業除外区域」とされ、商埠地及び長春縣城内などの既存市街地は、取り急ぎ建設事業の執行を必要としないため「将来逐次整理区域」とされた。これらを除いた「国都建設計画事業面積」は約79km2とされ、このうち官公用途10km2、私用途10km2の合計20km2(後に21.4km2に改定)が執行区域とされた。 国都建設計画区域内では、一般人による独占的買収・その他人為的騰貴を防止するため、1932年(民国21年)2月1日付の吉林省令(土地売買禁止令)を公布して、長春を中心とする30支里以内の民間による土地売買が禁止された。同時に収穫等による土地の算出価格を基礎として、妥当適切な土地買収価格を決定した。これにより最終的に面積100km2に及ぶ広大な地域の買収に当たり、土地収用令の適用を必要としなかった。 国都建設局は事業区域の民有地を買収し、道路、上下水道、その他施設を建設して市街地に整備した後、公用・公共用地以外の土地については、原則として一般競争入札により払い下げた。小売商店街では、一筆を間口12m、奥行き30mの360m2(約110坪)とし、必要に応じて隣接地との合筆も許可した。商館、卸売等の大建築を要する幹線道路沿いでは、一筆を1650m2(約500坪)としている。 住宅地は、地域に応じて第一級(875m2:約265坪)から第四級(330m2:100坪)に分かれており、一筆が狭ければ隣接地との合筆も可能だった。また宅地の背後に幅4m - 6mの背割道路を設け、道路に面さない宅地は存在しないよう区画整理されたので、物資の搬出入には極めて便利だった。 国都建設計画第一期計画区域では、払い下げ価格は目抜きの商店街で坪20 - 25圓、住宅地で坪8圓前後と予想された。これは国都建設局によると、当時の大連郊外の住宅地で坪25 - 60圓、繁華な商業街で千圓近い地価であり、第一期計画区域は将来の大新京市街の中心を成す事を考えると「破格の値段」であり、「国都建設局は全然利益を目的とするものではない」としている。 区画された市街地は、事業の着手が早かった北部から南部へ順に売却された。1933年(大同2年)度に大同広場、興安大路、豊楽路、安達街一帯、1936年(康徳3年)度には興仁大路、吉林大路、伊通河東方の一帯が払い下げられた。伊通河東方の一帯(和順街)は、主に買収地域に居住していた農民の移転用地や一般満洲人の新規取得地として想定され、幹線道路の吉林大路で城内と結ばれている。 国都建設計画第一期事業は計画通り完成し、1937年(康徳4年)9月に大同広場で国都建設紀念式典が挙行され、大同大街ではパレードが行われた。
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